追悼連載~「コービー激動の41年」その7 高校バスケ界のオンリーワンへ

[ 2020年2月23日 08:30 ]

母校ローワー・メリオン高校の体育館に掲げられた故ブライアント氏のユニフォーム(AP)
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 【高柳昌弥のスポーツ・イン・USA】ローワー・メリオン高校(フィラデルフィア)のグレグ・ダウナー監督はコービー・ブライアントが3年生となった1994年シーズンに“特別ルール”を設けている。ほとんどの試合でコービーがチームの中心であることに変わりはなかったが、もしボール・ハンドリングからシューティングまで1人ですべてをやり始めようとすると彼をベンチに下げたのである。

 「1対5ではだめだ。仲間を使え。チームで戦うことが大切だ」。指揮官のこの言葉はNBAで成功したあとも、彼の心の中に刻まれていたと言う。幸いにもコービーには高校時代からパサーとしての志向性があった。幼い頃からマジック・ジョンソンのプレーをビデオで何度も見ていたことがここで役に立った。

 チームのガード陣のシュート力はアップしていた。コービーは2年生までは常にダブルもしくはトリプル・チームでガードされたが、3年生では状況が一変。相手チームはコービー1人にディフェンスを集中させると巧みなパスをアウトサイドに供給され、“ダウンタウン”からの3点を覚悟せざるをえなかった。

 勝ちパターンを身につけたACESはこのシーズン、26勝5敗で所属のセントラル・リーグで優勝。前年覇者のリドリー高を76―70で下し、この試合でコービーは42得点を記録した。シーズン平均では31・1得点、10・4リバウンド、5・2アシスト、3・8ブロックショット、2・3スチール。仲間をうまく使いながらも、自身の成績をさらに伸ばしていったのである。

 しかしペンシルベニア州最高レベルのリーグ(CLASS AAAA)のプレーオフでは2回戦でヘイゼルトン高に59―64で敗退。コービーは31得点、15リバウンドをマークしたが「もっと頑張らなくてはいけなかった」と涙ながらにチームメートに謝罪した。それは夏の甲子園で敗れた日本の高校の下級生エースが、最後の試合となった最上級生に対して語る言葉のようだった。

 そして1995年の夏。コービーにとって高校最後のシーズンが始まろうとしていたが、それを前にしてコービーはすでに全米で最もすぐれた高校生という評価を得るようになった。各地から有力選手が集まってくるサマーキャンプではどこに行っても注目の的。ニュージャージー州北部のティーネックで開催されたABCDというキャンプでは試合の成績が良かったためにMVPに選出された。その1週間後にはラスベガスのアディダス・ビッグタイム・トーナメントに出場。多忙な日々はさらに続き、ゾーン・ディフェンス禁止で行われたキーストーン・ステート・ゲームという大会では参加したチームを1位に導き、コービーは平均38得点をマークした。

 決勝戦ではなんと47得点をたたき出し、またしてもMVP。ダウナー監督は「もはやマンツーマンで彼を抑える高校生はいない。まったく違う次元に行ってしまった」と全米を震かんさせたスーパー高校生にこれ以後、技術的には何も言わなくなったという。

 この頃、当時NBAの76ersを率いていたジョン・ルーカス監督の誘いもあって、プロの練習にも参加。そして指揮官は「コービーがNBAの選手をこてんぱんにやっつけてしまった」と16歳の少年の底力に目を丸くした。1対1で高校生に翻ろうされた4歳年上の相手はマイケル・ジョーダン(元ブルズ)の母校でもある名門ノース・カロライナ大出身のオール・アメリカで、ドラフト1巡目に指名された黄金ルーキー。そして「高校生に負けた」という事実は本人の名誉のためにしばらく伏せられた。まさに隠ぺいされた大事件?実はこの一件、すべてブライアントが仕組んだ“近未来への布石”だった。

 ◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、北九州市出身。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。NFLスーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会には一昨年まで8年連続で出場。フルマラソンの自己ベストは2013年東京マラソンの4時間16分。昨年の北九州マラソンは4時間47分で完走。

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2020年2月23日のニュース