堀江翔太、引退 その行動は、常に思いやりにあふれていた

[ 2024年5月26日 08:00 ]

5月18日<埼玉・横浜>秩父宮のファンに手を振る堀江(撮影・篠原 岳夫)
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 意外な人物から堀江翔太の名前を聞いたのは5月上旬、東京都内で開かれたスノーアワードの席だった。「オリンピックが終わった後に、翔太さんから連絡がありまして。熱いメールが来て…」。声の主は22年の北京冬季五輪で浅田真央さんの持っていた日本女子の冬季五輪最年少メダル記録を更新した、スノーボード・パークスタイルの村瀬心椛。堀江が10年近く師事する佐藤義人トレーナーに、指導を受けることになった経緯に話題が及んだ時だった。

 後日、堀江に事の経緯を尋ねる機会があった。「あー、心椛ちゃん」とパッと表情を明るくした後、面識は一切なかった村瀬に、インスタグラムのダイレクトメッセージを送った理由を明かした。

 北京五輪後のある日。朝のコーヒーを飲みながらテレビ番組を眺めていたところ、銅メダルを獲得した当時17歳の少女が発した「膝が痛い」との言葉が、頭から離れなくなったという。メダルを獲った喜びではなく、思わず痛みを口にしてしまうほどのつらさ。自身は15年2月の首の手術後、佐藤氏の指導を受けて復活を遂げた。放っておけなくなった。「たぶん返ってこないと思って、DM送りました。なんか知らんけど、(スマホを操作する)手が勝手に動いて」。折しも新しいトレーナーを探していた村瀬は、突然のDMに心を打たれ、すがる思いで返信した。そして佐藤氏を師事することになり、シーズン前に指導を受けた23~24年は、W杯の種目別優勝に加え、1月のXゲームでは2冠を達成した。

 ラグビープレーヤーとしての堀江翔太を振り返った時、私の中では試合のシーンよりも、さりげなく思いやりを行動に移せる男というイメージが真っ先に浮かぶ。15年W杯初戦の南アフリカ戦、歴史的大金星をおさめた選手、スタッフが入り乱れて喜びを分かち合う中、コンバージョンキックを終えた五郎丸歩に1人歩み寄り、ねぎらうように握手を交わした堀江。19年W杯期間中、出番がなくモヤモヤしていた選手を気分転換のために宿舎から連れ出し、食事やコーヒーを囲みながら、感謝の思いを伝えていた堀江。

 以前、インタビューをさせてもらった妻の友加里さん。小2の時、帰国子女の転校生だった友加里さんに、当初は多くのクラスメートが距離感を測りかねていた時、「同じ方向だから、一緒に帰ろう」と誘ってくれたのが堀江だったという。「家はそんなに近くなかったんですけど。彼は自然に話しかけてくれて」。最前列のフッカーながら、常に試合全体を俯瞰し、大局的に判断や助言を行う。プレーヤーとしての抜群に優れた能力も、人間性とは無縁のものではなかったのでは。そう考えるのも、決してこじつけではないはずだ。

 5月26日のリーグワン決勝で現役生活を終えた後は、競技の垣根を越えたS&Cコーチとしての活動を目指す。“兄弟子”として「若い子たちがああやって結果を残してくれるのが、一番うれしいですね」と村瀬の活躍を喜んでいた堀江。2年後に開かれるミラノ・コルティナダンペッツォ五輪では、金メダリストの師匠として、その名をとどろかせているかも知れない。(記者コラム・阿部 令)

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