国学院栃木・吉岡監督が強調した準Vの価値「この選手たちと“銀友だち”“銀仲間”になれた」

[ 2022年1月8日 19:09 ]

第101回全国高校ラグビー大会決勝   国学院栃木5ー36東海大大阪仰星 ( 2022年1月8日    花園ラグビー場 )

<東海大大阪仰星・国学院栃木> 試合を終えグラウンドをあとにする国学院栃木・吉岡監督(左)(撮影・大森 寛明)
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 還暦を迎えた白髪の指揮官は、すがすがしい表情だった。「私も高校時代は銀(準優勝)で、今回も銀だった。でも、銀には愛着がありますよ。金(優勝)に越したことはないけど、この選手たちとは“銀友だち”“銀仲間”になれた」。国学院栃木・吉岡肇監督は明るく声を張り上げた。

 吉岡監督とラグビーの出会いは中2の冬。テレビで東京・国学院久我山高と大阪工大高(現常翔学園)の試合を見たのが始まりだった。2学年上の兄が久我山の一般生徒で「チャンネル争いに負けて(笑い)」強制的に試合を見させられた結果、「人生観が変わった」という。久我山入学後にラグビーを始めると「全力で行ける、ぶつかれる。やんちゃでも思い切りできるのが自分にピッタリと思った」。チームは2年時に花園で全国優勝し、自身がWTBで出場した3年時は決勝で目黒(現目黒学院)に14―16と敗れて準優勝。終了寸前にトライとゴールを許す逆転負けだった。

 卒業後は一度リコーに就職し、2年後に日体大へ進学。教員志望ではなかったが、卒業後に東工大の助手となり、ラグビー部員に指導を頼まれたのを機に「自分で教えることの楽しさに気づいた」。その後、久我山の恩師・中村誠監督(当時)の要請もあり、当時同好会が発足したばかりの国学院栃木へ赴任。1989年(平元)に設立されたラグビー部の監督になった。

 発足当初は他の運動部から生徒を借りて試合に臨み、「(部員が)15人そろった時はうれしかった」。就任5年目の93年度、栃木県のトップだった作新学院の牙城を崩して花園初出場を果たし、いきなり2勝を挙げて16強入り。その後もコンスタントに出場を続け、田村優(現横浜)らを輩出して関東の強豪校に成長した。近年は県外から入学を希望する生徒が急増。スカウトは一切していないというが、吉岡監督によると「他の学校の練習も見た生徒が、ウチに入りたいと言うんだ」。練習は厳しいが、伝統校とは異なる雰囲気が魅力で、吉岡監督が自ら部員の進学をサポートすることも保護者の信頼を得ている。今年4月には沖縄や鹿児島出身を含めて50人もの入部が予定されているという。

 教員生活とラグビー部監督の両立で忙しく、趣味は特になし。日曜日だろうと、教室を離れてグラウンドに立つのがリラックスできる時間だ。花園では2011年度のベスト8が最高成績だったが、20年には吉岡監督の次男で元主将の航太郎氏(元早大)がコーチに就任して組織ディフェンスを指導。宿題未提出や居眠りにとどまらず、授業中に出歩いて再三呼び出しを食らうような部員たちが、グラウンドではひたむきなタックルを繰り返して全国2位にまでたどりついた。吉岡監督は定年を迎える5年後に航太郎コーチに監督を譲る意向を示しており「俺じゃ銀どまりだから」と自嘲気味に笑ったが、来年の話を向けられると「(SOの)伊藤龍と(FBの)青柳がまだ2年だからね。1番、4番、7番、9番、10番に15番が2年生。途中から出た2年生もいる」。教え子たちが“銀”を超える瞬間が待ち遠しいようだった。(中出 健太郎)

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2022年1月8日のニュース