自身も試練の連続だった25年 平松愛理「歌を通じて神戸の経験を広く伝える事が私のやりたいこと」

[ 2020年1月16日 05:00 ]

阪神・淡路大震災発生からの25年を振り返る平松愛理
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 神戸市出身のシンガー・ソングライター平松愛理(55)は、阪神・淡路大震災復興支援活動をライフワークのようにしてきた。1995年1月17日の同震災発生から25年を機に、あらためて四半世紀を振り返ってもらった。

 平松は毎年1月17日、神戸市内で復興支援ライブ「神戸ミーティング」を開催する。年の3分の1は同公演準備のために大規模なレコーディングや曲制作などをセーブするほど、心血を注いできた。

 95年は全国ツアー中だった。インフルエンザを発症し都内の自宅で寝込む中、震災発生を知った。須磨区の実家にやっと電話がつながると「お兄ちゃんも心配して電話してきたけど…これ、何?」と母。大多数の関西人が初めて味わう大地震。状況が理解できないのも無理はなかった。

 平松が神戸入りできたのは2月。義援金を持って市役所に向かう道中に見た突き上げられ切れた道、倒壊したビル。ポートアイランドからマスク姿で歩いて来る人々の列は無言で、ザクザクと靴の音だけが響く。舞う粉じんで色を奪われた街。衝撃的な光景だった。

 だが救いもあった。開業医の父は全壊した医院の隣にスペースを借りて無料診療を続け、感謝された。交差点ではやんちゃそうな茶髪の若者が交通整理。「お兄ちゃん、ありがとうな」と皆が笑顔で声を掛けていた。「この街はすごい。助け合って前を向こうとしてる」と実感した。

 平松も「歌で被災者を元気づけて」と頼まれ、ライブを続けた。阿久悠さん作詞、平松作曲で完成させたチャリティー曲「美(うま)し都~がんばろやWe love KOBE」を歌うと、神戸の人々は号泣。震災当時に心を戻してしまう歌の力に戸惑ったが、現実を一瞬忘れ笑顔にする力も歌にはあった。

 この25年は自身も試練の連続だった。子宮内膜症で96年の出産は母子ともに危険な状況だった。02年には乳がんを発症し活動休止したが、03年の神戸ミーティングは強行。「薬の副作用で体はめちゃくちゃキツかった。腰が抜けて舞台に行けず、ずいぶんお客様を待たせてしまった」。同公演が集客減で収益が少ない時は自腹で寄付金を補った。震災イメージを脱却したい人々に同公演が敬遠された時も、「それでも被災者は忘れないでいてほしいはず」と開催。神戸に寄り添い続けた。

 今年の神戸ミーティングは、神戸新聞松方ホール(神戸市中央区)で午後6時半開演。今回が最終回となるが、前向きな決断だ。被災地で歌うだけが支援じゃないと、25年で学んだ。「元気な土地で歌い、収益を被災地に渡す方法もある」。また、残りの音楽人生で何ができるかを考えた。「各地で災害が増える中、歌を通じて神戸の経験を広く伝える事が私のやりたいこと。全国展開を目指します」と宣言。神戸で得た貴重な経験をライブで全国に歌い継いでいく。

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2020年1月16日のニュース