内田雅也が行く 猛虎の地(2) 猛虎たちが踊り、疲れをいやした「天国」

[ 2019年12月2日 08:00 ]

雑誌「ダンス時代」第2巻第1号(1933年9月発行)に掲載された「ダンス・タイガー」の広告=尼崎市立地域歴史史料館提供=
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【(2)尼崎・杭瀬「ダンス・タイガー」】

 「牛のおいどで物知り」は「モーの尻」とかけた大阪のしゃれ言葉だ。多くの言葉が船場の商人や市民の間に広まった。

 なかに「辰巳の渡しであまくちや」がある。牧村史陽『大阪ことば事典』(講談社学術文庫)によると、辰巳は今の大阪市西淀川区の西の端、兵庫県境で、神崎川・左門殿川の船渡しがあった。左門橋が架かるのは昭和元年で大正時代まで続いた。川を渡れば尼口(尼崎の入り口)。「甘口」を言うしゃれである。

 その尼口の尼崎・杭瀬に昭和初期、ダンスホール「ダンス・タイガー」があった。前身の杭瀬ダンスホール開業は1928(昭和3)年11月と伝わる。33年に経営権を取得した高橋虎男が自身の名前から「タイガー」と名づけたようだ。

 当時、尼崎には尼崎ダンスホール、キングホール、ダンスパレスと4館もあった。男性客がチケットを買い、バンド演奏で店の女性ダンサーと踊るという営業形態。第1次大戦後、日本にもダンスブームが訪れていた。

 だが、大阪は風紀上の問題から市内のダンスホールの営業を禁止した。「男女が公然と抱き合うところを不特定多数の人びとに見せてはならない」である=『阪神間モダニズム』(淡交社)=。27年に阪神国道(国道2号線)が開通すると、モボ・モガたちは大阪から自動車やタクシーを飛ばし夜ごと尼崎に通った。
 名前への親近感もあっただろうか。「ダンス・タイガー」はタイガースの選手たちが親しんだ。

 今のプロ野球2年目、37年秋季リーグで優勝、年度優勝決定戦で巨人を下し日本一となった。球団主催の祝勝会が大阪・北新地の料亭「本みやけ」で開かれた。主将・松木謙治郎は監督・石本秀一とともに球団役員からミナミの料亭「坂口」での2次会に呼ばれた。飲みに行く約束をしていた景浦将、山口政信、伊賀上良平らに<タイガーで待つように伝え>と著書『タイガースの生いたち』(恒文社)にある。芸者との飲み比べに勝った松木はオールドパーを戦利品に駆けつけた。

 また、若林忠志は<ダンス好きなので、景浦をよく尼崎のダンスホール「タイガー」に連れていった>と鈴木明『プロ野球を変えた男たち』(新潮文庫)にある。<踊る景浦は本当に幸せそうだった。「ダンスを踊るときみたいな気持ちで野球もできないか」>と若林が言うと、景浦は「兵隊に行ったら終わりですよ」と覚悟していた。

 雑誌『ダンス時代』に掲載された「ダンス・タイガー」の広告に<こヽは夜のパラダイス 常春の花園!>とあった。猛虎たちの心身の疲れをいやす、花咲く天国だったのだろう。=敬称略=(編集委員)

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