痛めて変形したままの右手中指 中日・福留の体には、すさまじいプロ意識の証が残されている

[ 2022年9月24日 07:15 ]

セ・リーグ   中日3―9巨人 ( 2022年9月23日    バンテリンD )

<中・巨>岩瀬氏(右)、鳥谷氏(左)と記念撮影する福留(撮影・椎名 航)
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 【記者フリートーク】「明日から1軍行くわ」。その言葉を予想して取った電話の内容は昇格の知らせではなかった。9月上旬のある日の夕方。電話口から響くドメさんの声はいつもと同じだった。

 「引退するから。決めた。その連絡だよ」

 想定外の報告に驚かされた。終わりは来る…。しかし今季限りではないと思い込んでいた。その勝手な予想は本人からの「引退」という言葉で覆された。「ありがとう。おまえにも世話になったからな」。そんな記憶は一切ないが、中日担当でもない年下の記者にわざわざ連絡をくれた。

 また、戦力外通告を受けて阪神を退団する際には裏方さんへの感謝も忘れなかった。数百万円も自腹を切って御礼の品を用意。そして横田慎太郎の引退セレモニーが開催された時は後輩たちの気持ちを考えて行動していた。「(最年長の俺が鳴尾浜に)“行くなら俺らも行かないとダメだよな”と後輩たちが思うかもしれない。予定のある選手もいるだろうし。こっそり行くよ」。年下の選手に隠れてわざわざ私服に着替えて球場裏で最後の勇姿を見守る姿があった。どこまでも義理堅く、気遣いの人だった。この夜の引退試合には海外からも知人が駆けつけた。全て、その人柄を表していた。

 一方、選手としては壮絶な努力を続けていたことも知っている。若い頃は1日3000スイングが日課。「キャンプの一日の始まりは手を使えるようにすることからだったな」。長時間に及ぶスイングの影響で朝は決まって手が開かなかった。寝ている間に両手はバットを握る形のまま固まり、動かないその手を毎朝お湯で温めて指の一本、一本を広げて元に戻すことが起床後の日課だった。

 実は17年に痛めた右手中指は変形したままだ。当時、すでに40歳となっていたが、若手時代と同様にバットを振り続けていた。体には努力の証が数多く残されている。また、引退を決意した後も車で2時間以上もかかる遠方の治療院まで人知れず足を運んでいた。

「最後のあがきだよ」。最後の一振りにかけるため高額な治療費も惜しまなかった。最後の最後までプロ意識はすさまじかった。

 中日移籍後の2年間は家族と離れて“単身赴任”生活。自身の誕生日となった今年の4月26日は運よく関西で迎えることができた。45歳を目前にした同25日の夜。一日早い誕生日会では愛息とまな娘がバースデーソングを口ずさみながら誕生日ケーキを運んできてくれた。「ありがとう――」。照れくさそうにロウソクの火をそっと消し、成長した子供たちの姿を見ながらグラスを傾けていた。その父親としての優しいまなざしが印象的だった。「これからは家族との時間も楽しみだよ」。タクトを握るその時までゆっくりしてもらいたい。本当にお疲れさまでした。(13~20年阪神担当・山本 浩之)

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2022年9月24日のニュース