古橋氏は戦後日本の最大のヒーロー

[ 2009年8月3日 06:00 ]

世界水泳選手権最終日の競技開始を前に、古橋広之進氏を悼み黙とうする日本選手団

 世界新を連発して敗戦にうちひしがれる国民に勇気と感動を与え、引退後も国内外のスポーツ界で要職を歴任。2日にイタリア・ローマで死去した古橋広之進氏は、間違いなく戦後日本の最大のヒーローだった。異国での突然の死に、スポーツ界では驚きと悲しみの声が広がった。

 16年夏季五輪の東京招致活動でローマに足を運び、一緒にロビー活動したばかりだった日本オリンピック委員会(JOC)の竹田恒和会長は、海外から届いた突然の悲報に「信じられない思いでいっぱい。われわれのかがみであり、スポーツ界の誇りでもあった」と声を詰まらせた。古橋氏は90年から99年までJOC会長を務めた。五輪に商業化の波が押し寄せた一番難しい時期だったが、自らスポンサーに頭を下げ、資金獲得に奔走した。事務局員として裏で支えた川杉収二さんは「別格の存在で重みがあった。いてもらうだけでよかった」と存在感の大きさを指摘する。

 会議などでの発言は少なかったが、選手強化に関しては口を出した。茶髪やピアスがはやった時代には「ピアスをしないと泳げないのなら泳がなくていい」と言い切り、00年シドニー五輪の代表選考で落選した千葉すず選手がスポーツ仲裁裁判所に提訴した際には「信念を持って決めたこと」と毅然(きぜん)と対応した。古橋氏が泳いでいた終戦直後はコースロープの代わりに縄を使い、ピストルは進駐軍に禁止されたため手拍子でスタートした。誰よりも泳げることのありがたみを知っているだけに、選手に対しては厳しい一面を見せることも多かった。88年ソウル五輪の金メダリスト、鈴木大地氏も「合宿ではいつも“オマエら、魚になるまで泳げ”と言われた。金メダルを獲ったときもお祝いではなく、厳しい言葉ばかりを頂いた」と振り返る。

 優しさも忘れなかった。96年アトランタ五輪代表だった林享氏は「メダルなしに終わった選手たちを集めて、自らの生い立ちからお話ししていただいた。落ち込んでいた選手たちも、もう一度頑張ろうという気持ちになった」と感謝する。時に厳しく、時に優しく、戦後日本の象徴だった古橋氏は偉大な足跡を残して天国に旅立った。

 ≪今大会の全レース終了後に激励の予定が…≫前夜まで古橋氏と行動をともにしていた日本水連の林務元専務理事は「相当我慢強い方なので、無理をしていたんじゃないかと思う。申し訳ない。強じんな体だったので、私たちが過信していた」と話した。今大会の全レース終了後には選手へ向けて激励のあいさつをする予定だったため「昨日まで何を話すか考えていた」という。

 ≪ミーティングで選手たちに悲報≫悲報は世界選手権に出場している選手たちにもミーティングで伝えられた。男子200メートル自由形4位の内田は「これからの自由形はおまえが引っ張れ、と言われたのが最後だった。これからは天国から見守ってくださると思う」と神妙に話した。この日は大会最終日。「思えば、朝のメドレーリレー(予選)で8位に残ったのも、神懸かり的だった。日本チームが一丸となっている」と話した。

 ≪世界選手権でも黙とう≫国際水連は世界選手権最終日の午後の部が始まる前に、観客に古橋副会長が亡くなったことを紹介し、会場の選手や役員ら関係者、観客が黙とうした。観客席の日本選手団は腕に喪章を巻いて、日本チームを応援した。

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2009年8月3日のニュース