「フジヤマのトビウオ」古橋氏 ローマで急死

[ 2009年8月3日 06:00 ]

碑文谷日大プールで力泳する古橋広之進選手=1949年6月

 戦後の混乱期に競泳選手として活躍し「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた日本水泳連盟名誉会長の古橋広之進(ふるはし・ひろのしん)氏が2日朝(日本時間同日夕)、ローマ市内のホテルで急死した。80歳だった。静岡県出身。戦後の47年から49年にかけて自由形で世界新を連発。当時日本は国際水泳連盟から除名されていたために正式な記録としては認められなかったが、戦災でうちひしがれた国民に勇気と感動を与えた国民的英雄だった。

 古橋氏は7月13日からローマ市内のホテルに宿泊し、国際水泳連盟副会長として会議に出席。世界水泳選手権の表彰式ではプレゼンターも務めていた。屋外プールにもかかわらず連日プールサイドで精力的に活動していたが、1日夜には「ちょっと熱っぽい」と話し、しばらくホテルの部屋で休養。午後9時から11時ごろまで関係者とイタリア料理店でパスタを食べた。その際「胸がゼーゼーする」と話したが、食欲はあったという。2日朝は関係者とホテルで待ち合わせしていたがなかなか姿を見せず、不審に思った日本水連の幹部が8時ごろに部屋をノックしたが反応はなかった。10時半ごろに再び部屋を訪れると、すでにベッドの上で亡くなっていたという。イタリアの警察当局は、死亡推定時刻は2日午前8時(日本時間同日午後3時)ごろで「死因は不明だが自然死」と判断したという。
 古橋氏は9人兄弟の長男として静岡・雄踏町(現浜松市)に生まれた。雄踏小4年の時に競泳を始め、戦時中だった旧制浜松二中(現浜松西高)3年時には勤労動員の際に旋盤に左手を挟まれ、中指の先を切断した。それでも45年の終戦後は日大で活躍。「魚になるまで泳ごう」と連日3万メートルもの泳ぎ込みを続け、47年の日本選手権では400メートル自由形で4分38秒4をマークして当時の世界記録を上回った。しかし、戦争に敗れた日本は国際水連を除名されており、記録は世界新としては公認されなかった。48年のロンドン五輪にも日本は参加できなかったが、同日に開催された日本選手権の400メートル、1500メートルで五輪の優勝タイムを上回る“世界新”を出し、世界中を驚かせた。
 ようやく国際水連復帰が認められた49年には全米選手権で正真正銘の世界新を出して優勝。全米のメディアは「フジヤマのトビウオ」と絶賛した。晴れて五輪代表として参加した52年のヘルシンキ五輪ではすでに選手としてのピークを過ぎており、メダルは獲得できなかったが、当時のラジオ放送は「古橋を責めないでください」と連呼。敗戦にうちひしがれた日本国民に勇気と感動を与えたトビウオは、戦災復興のシンボルとなった。
 現役引退後も日本水連会長やJOC会長を歴任。96年のアトランタ五輪では日本選手団団長も務めた。08年にはスポーツ選手として初の文化勲章も受章。文字通り、日本スポーツ界を代表する国民的英雄だった。

 ≪夫人 悲しみこらえ…≫東京都世田谷区内の古橋氏の自宅では2日夜、恵子夫人(75)がインターホン越しに報道陣の取材に応じ「ローマで朝に亡くなったという連絡を受けた」と、悲しみをこらえるように淡々とした口調で話した。恵子夫人は古橋氏がローマに出発した7月13日に自宅で見送って「行ってらっしゃい」と声を掛けたという。その時の様子は「年が年ですから。元気というほどではなかった」と振り返った。今後、ローマに行くかどうかは「詳しい連絡がないので、予定はしていない」と語った。

 ◆古橋 広之進(ふるはし・ひろのしん)1928年(昭3)9月16日、静岡県浜名郡雄踏町生まれ。雄踏小―浜松二中―日大。小学6年で学童新記録を2種目樹立して「豆魚雷あらわる」と報道される。47年に400メートル自由形で世界新(記録は非公認)をマーク。49年の全米選手権では400メートル、1500メートルなど自由形3種目で世界新を樹立して優勝。五輪は52年ヘルシンキ大会に出場し400メートル自由形8位と惨敗して引退。67年水泳殿堂入り。日大文理学部教授、日本水連会長、国際水連副会長などを務める。90~99年日本オリンピック委員会会長。93年文化功労者、08年に文化勲章を受章。現役時代は1メートル74、71キロだった。

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2009年8月3日のニュース