【内田雅也の追球】人生を投影する野球 「引退」藤川球児が示してきた「生き方」の後継

[ 2020年9月2日 08:00 ]

セ・リーグ   阪神2-1ヤクルト ( 2020年9月1日    甲子園 )

25歳になった05年に頭角を現す藤川
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 野球に人生を投影する。藤川球児はそんな選手である。

 昨年夏の豊橋市民球場だから7月17日のことだ。関係者によれば、球宴前のこの時期も彼は引退を考えていたそうだ。

 セミや小鳥が鳴く試合前、阪神ベンチに座っていると、彼がやって来て「コラム、おもしろいですね」と話した。「僕は単に野球をやっているんじゃありません。野球をどうとらえれば人生に通じるのかをいつも考えています。内田さんの文章は、野球を書いているのに人生を感じます」

 野球は人生に似る、というのが一つのテーマなんだと伝えた。彼も同じことを考えていた。

 この日午後の引退会見で語ったのも煎じ詰めれば人生だと言える。彼はプロとして生き方を示してきた。

 「みんなが、世の中が苦しい時に、少しでもストレス発散できるように戦ってきた。そういうことを受けいれて戦ってきたつもりでいる。今後も誰かが苦しい時に寄り添えるような、そういう生き方をしたい」

 サトウハチローの『長嶋茂雄を讃(たた)える詩』を思う。

 <疲れきった時/どうしても筆が進まなくなった時/いらいらした時/すべてのものがいやになった時/ボクはいつでも長嶋茂雄のことを思い浮かべる/長嶋茂雄はやっているのだ/長嶋茂雄はいつでもやっているのだ>

 昭和30~40年代の高度成長期、人びとは日々、懸命に働いた。今より少しでも暮らしが楽になるように、幸せになるようにと汗水を流した。疲れた体で夜、家に帰り、ナイター中継を見ると、長嶋ががんばっている。その姿を「よし、自分もがんばろう」と明日への活力としていた。「ミスター・プロ野球」とはそんな存在だった。

 平成後期からの彼である。毎日のように登板し、剛球を投げ込む姿に人びとは自らを奮い立たせてきた。彼のがんばりを活力にしてきた。

 会見で彼は「25歳からいつつぶれてもいい覚悟」と言った。25歳になる2005年、JFKで頭角を現した。

 この夜先発した高橋遥人の年齢である。7回3安打1失点と十分に役目は果たした。

 1点リードの7回表、2死から村上宗隆に二塁打され、初めて得点圏に走者を背負った。震えたことだろう。この夜、初の四球を与えた後、同点打を浴びた。さらに四球で2死満塁。しかも代打・青木宣親に3ボール0ストライクと追い詰められた。

 長い間、最終回にリードを守ってきた藤川の震えと重圧を味わったことだろう。最後は遊ゴロにきった。藤川のように、魂がこもった直球だった。高橋もこれで一つ人生を知ったことになる。

 同点の9回表に登板したロベルト・スアレスも1死二、三塁を招き、震えと重圧を味わった。そして、何とかしのいだ。藤川以上の剛球を持つスアレスも、クローザーは今季初めて経験している。

 高橋もスアレスも、藤川の生き方を後継するために必要な、震えと重圧を味わったのだ。震えるのは人間だからである。恐怖や苦悩の先に喜びがある。やはり、彼が言うように、野球は人生に通じている。=敬称略=(編集委員)

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