帝京で全国制覇、吉岡氏が懸念する甲子園後の「高校日本代表」のあり方

[ 2018年8月13日 09:30 ]

1989年夏の甲子園 仙台育英を破って優勝した帝京・吉岡(左)は最後の打者を三振に切って取り、両手を挙げ歓喜
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 名球会に入ったのは、小久保裕紀と前田智徳。メジャーでもプレーしたのは、新庄剛志と大塚晶則だ。甲子園で一番注目を浴びたのは元木大介だろうか。仁志敏久は1年夏から大活躍していた。

 いわゆる1971年生まれのプロ野球選手たちだ。記者も同じ世代だ。彼らが高校3年だったのは、1989年。その夏の甲子園を制した帝京のエースは、現日本ハムで2軍打撃コーチを務める吉岡雄二だった。

 巨人に投手として入団したが、プロの世界ではその後に移籍した近鉄で、「いてまえ打線」の中軸を担った打者のイメージの方が強いかもしれない。それでも高校時代は甲子園で3完封した世代トップの本格派右腕だった。

 そんな吉岡に、当時の話を聞いた。その中で印象に残ったのが、甲子園が終わった後の大会についてだった。つまり、「高校日本代表」のあり方の意見だ。

 「甲子園は普段と違って、限界まで力を出し切ってくる。特に甲子園が終わった後のオールジャパンは、投手の故障のリスクが高い」

 事実、高校3年生だった吉岡少年も全国制覇した後、韓国に派遣される日本選抜チームに入って右肩を痛めたという。巨人入団したプロ1年目に右肩を手術。2年間はリハビリに専念し、投手としてスポットライトを浴びることなく、4年目に打者転向した。

 時代は変わった。メジャーリーグをテレビで観戦できるようになった。4年に一度はWBCも開催される。最近の子供たちは、以前よりも確実に世界を意識している。甲子園が終わっても、優秀な選手たちは29年前と同じように日の丸を背負ってプレーする機会が用意されている。

 大きなモチベーションにもなるし、貴重な経験となる。日本球界の発展にも大きな役割を担っていることだろう。ただ、吉岡が「国際大会になれば、疲れていても手を抜くことはしない。後々が心配」との指摘も大きな意味を持つ。「僕も実際に怪我をした」という言葉には重みを感じた。

 昨夏甲子園に出場できなかったが、高校日本代表としてU―18W杯に出場した清宮のようなパターンは、精神的にも肉体的にもフレッシュな状態で国際大会に臨めるだろう。「今と昔じゃ、暑さも全然違う。自分たちの頃は熱中症なんて言葉は聞かなかった。日射病だった」。そんな中でプレーをしてきた球児たちを、どんな形で世界を経験させてあげるのが最良なのだろうか。野球界の発展のためにも、いろんな方法を考えていく必要があるだろう。(記者コラム・横市 勇)

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2018年8月13日のニュース