【内田雅也の猛虎監督列伝(29)~第29代 星野仙一】命を懸けた夢 心に火をつけた「勝ちたいんやっ」

[ 2020年5月19日 08:00 ]

04年9月15日、18年ぶりリーグ優勝を決め、胴上げされる星野監督
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 2001年12月12日、ウェスティン・ナゴヤキャッスルで星野仙一の就任が発表となった。野村克也辞任からわずか6日目。夫人脱税問題での有事に備えていた。

 球団社長・野崎勝義が打診していたのは仰木彬(本紙評論家)で本人は前向きで年俸や付帯条件まで伝え、仮契約寸前だった。野崎の著書『ダメ虎を変えた!』(朝日新聞出版)によると本社役員から「女性問題でスキャンダルが予測される」と反対意見があった。

 オーナー(本社会長)・久万俊二郎は星野で進めていた。新聞記者から中日監督を退任した星野に「チャンスがある」と聞いた。11月9日、リッツカールトン大阪で会談した。星野は久万に「低迷はすべてあなたの責任ですよ」と直言。当初は断り、監督に島野育夫を推薦している。1カ月後、再度要請に向かい、内諾を得たのだった。

 優勝達成直後に出した著書『夢』(角川書店)にはNHK解説者時代から助言を受ける川上哲治から「絶対に行ってはならん」と反対されながら受諾した心境を<有事が好きで有事になるほど異常なほど燃えて――>と記している。<阪神から正面きって話がきた時には全身に火がついた>。

 就任発表前の席で星野は久万に「オーナー、勝ちたいんでしょ? 一緒に戦いましょう」と言った。同日、野村に電話を入れると「迷惑かけて悪いな。頼むぞ」と言われた。「敵としても光が見えてきた気がしていました。その光を大きくします」と応えた。

 星野はヘッドコーチに懐刀の島野、打撃コーチに盟友の田淵幸一を入れた。田淵は「深夜のトレード通告」以来、24年ぶりの古巣復帰だった。

 選手に加え、記者にも「再建リポート」の提出を求めた。「担当記者も戦力」とマスコミ対応も腐心した。遠征先ホテルで「お茶会」と称して懇談した。広報担当に広く情報提供するよう指示した。車は名古屋から大阪ナンバーに買い替えた。「腰かけ気分」とみられぬよう、野村が過ごしたリッツカールトン大阪の高級室を出て芦屋のマンションに引っ越した。先人の藤村富美男、村山実の墓参した。関西に、そして阪神に身を委ねた。「このチームは……」と二言目にはグチが出た野村とは違い、選手をほめあげた。

 スローガンは「ネバー、ネバー、ネバー、サレンダー!」(絶対、絶対、絶対、あきらめるな!)を掲げた。02年のキャンプイン前日、高知の土佐ロイヤルホテルで選手たちと初対面となった。

 「オレは勝つために来た。優勝するために来たんだ」監督からの耳慣れぬ「優勝」という言葉に4年連続最下位の負け犬たちの心に火がついた。「野球を愛せ。タイガースを愛せ。オレももう一度、野球に恋する」

 オープン戦から勝ちにいき、15勝3敗2分けとトップの成績。開幕戦を12年ぶり勝利で飾り、そのまま7連勝した。首位を走ったが、6月に入ると勝てなくなり、7月からけが人が続出した。1年目は4位で終え「この悔し涙を来年はうれし涙に変える」と宣言した。

 オフには24人の大量整理を行った。血の入れ替えと話題となったが、星野にすれば<球団幹部前任者たちの背任行為の尻ぬぐいをしただけ>。FAで金本知憲を「オレと一緒に歩むようになっている」と口説き、大リーグから復帰の伊良部秀輝を獲った。トレードで下柳剛、野口寿浩、新外国人のジェフ・ウィリアムスと補強した。

 03年。キャンプは新たに1次を沖縄・宜野座で張った。星野が繰り返した「勝ちたいんやっ!」は後に流行語となった。

 開幕後初の巨人戦(東京ドーム)で9回、6点リードを追いつかれ延長12回引き分けた。同夜、集合をかけた星野は「申し訳ない。オレの一世一代のミステーク」と謝った。翌日は3回に一挙8点で快勝。ショックを引きずらないたくましさが備わっていた。4月18日に立った首位の座を一度も渡さずに独走した。

 5月は浜中おさむ、片岡篤史、ジョージ・アリアスの3連発。巨人戦で9回表、大量11点をあげての逆転勝利があった。

 前年失速した6月も15勝5敗。浜中が右肩脱臼で戦列を離れると八木裕が4番で4安打した。

 7月には桧山進次郎がサイクル安打。オールスターファン投票では全9ポジションで1位を独占した。8日、星野の故郷・倉敷で今岡誠が2試合連続初回先頭打者初球本塁打を放ち快勝。早くもマジック49が点灯した。

 この頃を星野は「怖かった」と振り返る。独走なのだが「万が一、優勝を逃したら、オレは日本におれん」。7月27日のナゴヤドームでは試合中ベンチ裏に下がって休んだ。血圧が上がり胸が苦しく、めまいがした。

 8月の長期ロードは4勝11敗と苦しみ、ミーティングで「チャレンジャー精神を思い出せ」と活を入れた。ロード明けの甲子園、1回表に2点を失った裏、金本が逆転3ランを打ち込んだ。

 9月5日の横浜戦で矢野輝弘(燿大)が逆転サヨナラ弾を放ち、マジック「5」。神宮、ナゴヤドームは5敗1分けと足踏みし、「2」で甲子園に帰ってきた。15日の広島戦はデーゲーム。片岡が同点弾、赤星憲広がサヨナラ打を放って「1」とした。

 ナインもファンもそのまま場内に居残り、大型ビジョンでマジック対象だったヤクルトの横浜戦(横浜)を見守った。ヤクルトは敗れ、ついに18年ぶりの優勝は成った。

 マウンドに駆け寄って胴上げとなった。星野は7度宙を舞った。優勝インタビューの第一声「あ~、しんどかった」は本音だったろう。「夢に日付を書き入れることができました」

 記者席やプレスルームで原稿を書き始めたころ、阪神担当幹事だった本紙・畑野理之に星野から電話があった。「みんなに伝えてくれ。母親が亡くなってたんや」。13日に母・敏子(91歳)が息をひきとっていた。胎内にいるころ父が他界、女手一つで育ててくれた母だった。畑野は頭からタオルをかぶって涙を隠し、優勝原稿を書いた。

 10月2日、星野は久万に辞任を申し出た。持病の高血圧に不整脈、胃から出血するという状況に、主治医から「友人としては応援するが、医者としては辞任を勧める。これが限界だ」と伝えられていた。

 日本シリーズで福岡入りした10月16日、星野はコーチの岡田彰布をホテルの部屋に呼び、自らの辞任と監督の禅譲を伝えた。翌17日には一斉に「勇退」報道が出た。異例の状況で迎えたダイエー(現ソフトバンク)とのシリーズは最終戦までもつれる激闘の末、3勝4敗で散った。

 「誇りに思うよ。楽しかったな。みんな、ありがとう」目の前で泣く選手たちを柔らかな顔で見ていた。=敬称略=(編集委員)

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