永田裕治U18監督 地に足着けてプレーできていた報徳学園 小園に感じたスター性

[ 2018年8月12日 09:00 ]

第100回全国高校野球選手権記念大会第7日2回戦   報徳学園3―2聖光学院 ( 2018年8月11日    甲子園 )

<聖光学院・報徳学園>3回無死、報徳学園・小園は中越えに二塁打を放つ(撮影・坂田高浩)
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 【名将かく語りき〜歴史を彩った勝負師たち〜第7日】報徳学園の選手として1981年夏に全国制覇を経験し、前監督として2002年センバツで全国制覇を果たした永田裕治氏(54=U―18日本代表監督)が、報徳学園―聖光学院戦を甲子園で観戦。初戦の難しさを改めて感じ、勝敗を分けた大きな要因として「バントの成否」を挙げた。

 どれだけ実力差があっても、下馬評通りにいかないスポーツが野球だ。まして、甲子園の初戦は本当に難しい。思うような野球ができないことは、23年間の監督生活で何度もあった。

 1995年センバツから春夏合わせて18回、甲子園に出させてもらったが、春6回、夏4回の計10回も初戦敗退の悔しさを味わった。本来の力をどれだけ発揮できるか、いかに普段通りにできるかが一つのポイントで、9イニングを通して地に足を着けてプレーできていたのが報徳学園だった。

 1番の小園が先頭打者で巡ってきた3度全てで二塁打を放ち、次打者の村田が3度全てで送りバント成功。とくに同点の8回無死二塁からは2ボール2ストライクと追い込まれながらもバントにこだわって三塁に進め、長尾の左前適時打で決勝点を呼んだ。チーム打率・272で東兵庫大会を勝ち上がってきたのと同様だった。

 一方でセンバツにも出場し、経験では一日の長があるはずの聖光学院は初回こそ、田野が右前打し、2番・横堀が犠打。4番・須田の右前打で同点としたが、4回無死一塁、7回無死一、二塁、8回無死一塁と犠打を3度決められず、得点を奪うことができなかった。

 近年は各学校とも情報収集力に優れており、聖光学院も報徳学園の二枚看板のうち、右腕・木村には苦戦するのではという思いがあったのだろう。先発した左腕・渡辺友から木村に継投される前に得点を奪いたかったはず。その、見えない焦りが“ミス”につながったように思う。両チームを見比べた時、報徳学園の選手の方が落ち着いており、聖光学院の方が逆にばたついているように見えた。

 監督時代に02年センバツ優勝投手の大谷智久(ロッテ)ら、プロ野球選手も送り出してきたが、小園のようにスター性を感じさせる選手はほとんどいなかった。この日も打席に入ると、球場の雰囲気が変わり、私自身も打つ雰囲気を感じた。

 学校では担任でもあるので、あまり褒めることもしたくないのだが、順調に成長を遂げてきた。スター性を感じたのは、報徳学園では自分と同期だった金村(義明=元中日)以来じゃないだろうか。同じ選手として“凄い”と感じた。

 全国制覇した81年夏の2回戦、横浜戦で4番・金村が2打席連続ホームランを打った。当時5番を打っていて“何でそんなに打てるねん”と思いながら、球場全体がざわつく中で打席に入ったことを覚えている。

 最後に個人的なことに触れさせていただきたい。大角監督を就任時から見ているが、采配も少しずつ変わってきた。当初は無謀と思えることもあったが“勝てる采配”ができるようになってきた。選手を信頼すれば、応えてくれることが徐々に分かってきたと思う。自分が目指す野球を追求していってもらえれば。教え子なので成長していってもらいたい。 (U―18日本代表監督)

 ◆永田 裕治(ながた・ゆうじ)1963年(昭38)10月18日生まれ、兵庫県出身の54歳。報徳学園3年時の81年に右翼手として春夏連続で甲子園出場し夏は全国制覇。90年4月から同校コーチを務め94年4月に監督就任。春夏合わせ18度の甲子園出場を果たし2002年選抜で優勝。17年選抜出場を最後に退任した。現在は高校日本代表監督を務める。甲子園通算23勝17敗。

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