古田氏 メガネ捕手初殿堂 プロ指名漏れ、ノムさんとの出会い…

[ 2015年1月24日 05:30 ]

野村氏のレリーフの横で笑顔を見せる古田氏

 野球殿堂博物館の表彰委員会は23日、競技者表彰のプレーヤー表彰に頭脳派捕手として活躍、ヤクルトの黄金期を築いた古田敦也氏(49)を選出した。古田氏は大学・社会人を経てプロ入りした選手として初めて通算2000安打を達成し、1500試合以上出場の捕手では野村克也、森祇晶両氏に次ぐ3人目。指導者も対象のエキスパート表彰は該当者がなく、特別表彰では、日本リトルリーグ設立に尽力した林和男氏(故人)、全国中等学校優勝野球大会(現全国高校野球選手権大会)を創設した元朝日新聞社長の村山龍平氏(故人)を選出した。

 晴れがましさ、そして大きな感謝に驚きも交じっていた。メガネの奥の目を細めて、古田氏は熱い思いを口にした。

 「まさかこのようなとこ(野球殿堂)に入れるとは思ってなかった。まずは両親、そして野村監督と若松監督…いろんな方に感謝したい」

 第一声の「まさか」は本音だった。無名の県立校、川西明峰から立命館大へ。「メガネの捕手は大成しない」が定説だった時代、大学4年時にドラフト候補に挙がりながら指名漏れした。視力は裸眼で0・1。乱視がきつく、乱視矯正のコンタクトレンズは当時ハードタイプだけ。同タイプは接触プレーで破損する可能性もあり「メガネしかなかった」という。

 大学時代から強肩とインサイドワークにずぬけていた古田氏。88年ソウル五輪の日本代表に選ばれ、代表合宿のときのことだ。当時の鈴木義信監督(現全日本野球協会副会長)へ外野転向を申し出た。「プロに行きたいけど、メガネをかけている捕手は駄目なので」。そこで鈴木監督にこう諭された。「おまえがメガネの捕手第1号になればいいじゃないか」。その言葉に背中を押され、見事にハンデを克服した。全ては「大学で指名漏れしたあの悔しさ。プロで見返してやりたい」という反骨心からだった。

 プロでは出会いにも恵まれた。ヤクルト入団時の監督で、往年の名捕手だった野村克也氏からデータ重視のID野球を叩き込まれた。1年目から正捕手になり、厳しく怒られる毎日。試合中にベンチで立たされて「プロで成長するためのイロハのイから。あの厳しい指導がなかったら殿堂入りはなかった」。2年目の91年には首位打者。5度のリーグ優勝、4度の日本一に貢献し、06年から2年間プレーイングマネジャーも務めた。

 グラウンド外でも功績を残した。日本プロ野球選手会長として04年の球界再編では、経営者側の強固な姿勢にも屈せずストライキを断行。ファンに野球を見せられないことに涙を流した。現在の12球団、2リーグ制の維持は「戦う選手会長」あってこそ。「プロ野球が隆盛なら子供たちもそこを目指す。これからも憧れの存在であってほしい」。そのためにメガネの名捕手・古田氏は尽力していくつもりだ。

 ◆古田 敦也(ふるた・あつや)1965年(昭40)8月6日、兵庫県生まれの49歳。川西明峰では甲子園出場なし。立命大からトヨタ自動車を経て89年ドラフト2位でヤクルト入団、1年目の90年に新人捕手初のゴールデングラブ賞を獲得。91年にセ・リーグ捕手初の首位打者に輝いた。5度のリーグ優勝、4度の日本一に貢献し、93、97年にMVP。05年には2000安打を達成。ベストナイン9度、ゴールデングラブ賞10度。06年から選手兼任監督を務め、07年で引退、退任。1メートル80、80キロ。右投げ右打ち。

 ▽野球殿堂 日本野球の発展に大きく貢献した人たちの功績を称え、顕彰することを目的に1959年に創設された。プロ球界で功績のあった競技者表彰(プレーヤー表彰と、指導者も対象となるエキスパート表彰)と、審判員やアマを含め球界に貢献のあった人が対象となる特別表彰がある。選出はいずれも投票で75%以上の得票が必要。今回で競技者表彰は86人、特別表彰は101人となった。殿堂入りした人は東京ドームの野球殿堂博物館にレリーフが飾られる。

続きを表示

この記事のフォト

「第91回(2019年)選抜高等学校野球大会」特集記事

「稲村亜美」特集記事

2015年1月24日のニュース