追悼連載~「コービー激動の41年」その18 シャックとの出会いと苦難の門出

[ 2020年3月5日 08:30 ]

レイカーズで「合体」したオニールとブライアント(AP)
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 【高柳昌弥のスポーツ・イン・USA】1996年の10月14日。キャンプ初日となるチームの「メディア・デー」で、コービー・ブライアントは新加入の「シャック」ことシャキール・オニールに声をかけれらた。しかし内心穏やかではなかったと思う。なぜならオニールはブライアントに対して「ヘイ、ショーボート(Showboat)!」と呼びかけたからだ。

 どういう表情でしゃべったのかがわからないので本当の気持ちまではわからないが、冷やかしと嫌悪感や嫉妬がわずかずつ入り交じったような言葉だ。「Showboat」はミシシッピ川などで運行される観光用の蒸気船。船内では演劇などが上演されるなどエンターテイメント性の高い商業船で、同名の映画やミュージカルも制作されている。多くの人が押し寄せてくるので転じて「人目を引きたがる目立ちたがり屋」とかスポーツ界では「派手なプレーをする選手」という意味にもなる。俗語には「鼻につく、威張る、横暴な振る舞いをする」といった意味もあるので、少なくとも両手を広げて素直に歓迎の意を示すときには使わない言葉だ。

 当時オニール26歳でブライアントは18歳。これはすでに実績を残している先輩が、まだ何もチームに貢献していないのに注目を集める新人に対して「よっ、そこのルーキー。1点も取ってないのに人気だけはあるんだな」と、皮肉たっぷりに語ったとも受け取れる。

 そして10月16日。コービーはカリフォルニア州フレズノで行われたプレシーズン初戦のマーベリックス戦に出場した。10得点&5リバウンド。上々の出来だった。その2日後、本拠地フォーラムでの第2戦には1万4000人のファンが集結。プレシーズン・ゲーム(オープン戦)としては異例の観客動員だった。相手は父ジョー・ブライアント氏の古巣でもある76ers。コービーはダンクを2発決め、チームも113―92で勝った。

 ただし好事魔多し。76ersのセンター、ティム・ケンプトンと接触した際、コービーはフロアに腰からたたき落とされてしまったのである。ノートルダム大出身のケンプトンは208センチ、116キロのセンター。結局、開幕前にカットされたあとにスパーズに拾われる選手だが、18歳のコービーが空中での接触でバランスを維持するにはサイズが大きすぎた。フロアから立ち上がったものの足取りがおかしい。結局お尻が紫色になるほど腫れあがり「左大臀筋炎」と診断された。

 レイカーズのユニフォームを着てたった2カ月で2度目の故障。当然のことながら「やっぱり大学に行くべきだった」という批判がわき起こった。レイカーズに所属していた同じフィラデルフィア出身のレギュラー、エディ・ジョーンズは「ときにはゴール下には近づかないほうがいい。自分をセーブしなければいけない時もある。スクリーンに立ってもひじ打ちをくらうと覚悟しなければならない。それがNBA。彼は若いしファンを驚かせるプレーを見せることを望んでいるが、もっと学んだほうがいいと思う」とメディアを通して忠告。コービーにとっては耳が痛くなるようなアドバイスだったことだろう。

 このあと、デル・ハリス監督はプレシーズンの残り試合にコービーを出場させなかった。短期間に立て続けに故障したのでは、どんなに能力があってもチームの戦略や構想からは外れてしまう。11月1日、敵地アリゾナ州フェニックスで開幕戦(対サンズ)を迎えたが、背番号8がコートに立つことはなかった。

 出番が巡ってきたのは3日に地元ロサンゼルスのホームアリーナ「フォーラム」で行われたティンバーウルブスとの第2戦で、18歳3カ月という当時の史上最年少記録を樹立してNBAにデビュー。だが高校時代に華々しい「記録」を打ち立てて注目を集めたコービーのプロ初戦はまさに「0」で始まる。そこにあったのはNBAの厳しい現実だった。(敬称略・続く)

 ◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、北九州市出身。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。NFLスーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会には一昨年まで8年連続で出場。フルマラソンの自己ベストは2013年東京マラソンの4時間16分。昨年の北九州マラソンは4時間47分で完走。

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