“小さな巨人”井上大仁 敗者の歴史と勝利への執念 心に深く刻み込まれた激走

[ 2020年3月5日 10:00 ]

井上大仁(MHPS)
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 負けてもなお歴史に名を成さしめる人物がいる。男子マラソンの井上大仁(27=MHPS)もその1人になるかもしれない。

 1日に行われた東京マラソン。東京五輪男子マラソン代表最後の1枠を懸けて、3強といわれた大迫傑(28=ナイキ)、設楽悠太(28=ホンダ)、井上大仁が激突した。日本記録を更新して3人目に前進した大迫陣営も一時は負けを覚悟したほど、井上が見せた激走に世界への可能性を感じたファンは多かったはずだ。最終的には26位に終わり「撃沈レースです」。井上はそう述懐するが、MGCの設楽の激走と同様に間違いなく井上大仁という名前はマラソンファンの心に深く刻み込まれた。

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 大迫は勝ってきた。設楽も勝ってきた。今大会で“3強”といわれた井上には負けの歴史の方が多い。高校時代は全国経験はなし。山梨学院大でも箱根駅伝で優勝は未経験。チームが途中棄権するという屈辱も味わった。MHPSマラソン部の黒木純監督はいう。「彼は負けから成長する。そういう選手なんです」。反骨心。井上を語る上で重要なキーワードだ。

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 かつて井上に負けなしだった男がいる。同学年で同じ長崎出身の的野遼大(27=MHPS)。的野は中学、高校時代は長崎県を代表する選手として何度も井上を蹴散らしてきたが、社会人になってから井上の凄さを身をもって体感し続けているという。「井上は相当な負けず嫌い」と“小さな巨人”の強さの源を明かす。

 的野が井上の存在を知ったのは中学3年だった。当時の井上について「正直、知りませんでした」と申し訳なさそうに語る。中学の全国大会に長崎代表として出場した。帯同選手の中に井上がいた。「標準記録を突破して全国に出場する選手は県で毎年何人かしかいない。その中の1人が井上だった。あぁ、こういう選手がいるんだなと。彼の走りはそんなに見ていなくて記憶にない。中学は負けてないっすね」振り返る。

 高校は的野が諫早高。井上は鎮西学院高でしのぎを削った。的野が井上に「完敗した」と感じたのは高校3年生の全国高校駅伝県大会だった。

 近隣の高校同士で駅伝ではライバル関係。井上が最終学年で全国出場に懸ける思いはひしひしと感じていたという。的野は「その気持ちがレースにも記録にも出てきていて、レースでも何回か負けていますね」

 県予選の1区で両者が対戦し、井上が的野を終始圧倒。「思い返してもあのレースは僕の完敗です。井上が最初から最後まで勝っていた。距離に対する不安もなく、長距離向きなんだろうと当時から思っていた」

 結果的に井上は全国高校駅伝に出場することはできなかったが、的野は「負けん気強いのは印象的だった。最初の方は僕の方が速かったので、井上が勝ちに来ようとしても『負けないし』と思っていた。でも、勝ちに来る気持ちはすごかった。相当な負けず嫌いだと思った」と振り返る。

 大学卒業後に再び地元で再会。今度は同僚となった今では井上の走りに刺激を受け、中距離専門だった的野も距離を延ばし始めた。「結果を出す井上を見て、マラソンを格好いいと思うようになった」。2月の香川丸亀国際ハーフマラソンでハーフデビュー。同月の唐津10マイルロードレースでは優勝を果たすなど、今度は的野が負けじ魂に触発されている。

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 歴史にタラレバはないが、もし井上がフレッシュグリーンのユニホームを着ていたら…。青学黄金時代を築こうと野心に燃えていた原晋監督が井上を勧誘していたという話を聞いたことがある。青学大に進んでいれば初の箱根駅伝総合優勝のメンバーに名を連ね、常勝の流れに乗って華やかな陸上人生を歩んだかも知れない。

 ただ、井上はプルシアンブルーの山梨学院大を選んだ。夏は炎天下、冬は氷点下の中で練習に打ち込む甲府盆地を選んだ。その先に世界を感じていた。ケニア人留学生の存在が井上を山梨に駆り立て、エノック・オムワンバ(MHPS)らを目標に世界標準を追い続けた。

 学生時代から大器の片りんを見せていたが、本格的にマラソンランナーとして井上を開花させたのは自身も山梨学院大OBの黒木監督にほかならない。黒木監督は長崎時代から井上のことを知っていたという。「小さいけど良い選手がいるというので見ていた」

 高校のころに声を掛けようとしたが「山梨学院大の上田監督が先に井上に声を掛けていたので4年間は我慢しましたよ。卒業後は戻って来いとは言っていましたけど」と苦笑いする。井上が大学入学後、上田監督から連絡をもらった。「(井上は)もしかしたら化けるかも知れない。日の丸を付ける選手になるかも」と伝えられていたという。

 黒木監督自身は「本当にこの走りがマラソンに移行できるのか、ハーフなら勝負できるのかな。箱根で活躍するくらいかな」と半信半疑の部分があったが、関東インカレハーフマラソンで優勝など結果を見て「ひょっとして」と考えを改めた。

 黒木監督が他の選手と決定的に違うのは推進力のあるピッチだという。そして何より違うのは「負けん気の強さですよね」とキーワードが飛び出た。

 旭化成の宗兄弟からも「すぐにマラソンをやらせた方が良いと言われた」というほどの逸材は16年3月のびわ湖毎日マラソンでデビュー。急ピッチでリオ五輪選考会に合わせたため、その後に長期離脱を余儀なくされた。ただ、五輪選考会という独特の雰囲気を味わったことは井上にとって大きな収穫とも成った。レース後の面談で「東京でメダルを獲ろう」と意思確認。4年後への壮大なプランがスタートした。

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 井上は「勝利への執念」を世界を知る男たちから学んでいた。18年夏、都内で行われた日本陸連主催の合宿で灼熱(しゃくねつ)の91年東京世界選手権でマラソン金メダルの谷口浩美のアドバイスにハッとしたという。

 井上が感心したのは金メダリストのマラソン、そして勝利への向き合い方だった。暑熱対策、シューズ、そこから勝ちを計算していくのではなく「谷口さんたちは勝つことしか考えてなかった」と目を丸くした。勝つために何をするかということに“全振り”していた。「自分たちは暑熱対策をして、ダメージを減らしてという発想だったが、谷口さんは勝つための手段として暑熱対策をしていた。」と考え方の違いに驚いたという。

 戦い方もそう。「わざと日差しが強い方にでて、上りがきついところでしかけたり。僕たちは漠然と動いている感じ」。谷口の経験談と自分を比較して「まだまだこれからだな」と思いを新たにした。

 谷口からは26位と惨敗した17年ロンドン世界選手権の指摘も受けた。「夏場に走りすぎたら駄目なんだと思いました。谷口さんレベルの人たちもカツカツにはしないというのが確認できた」

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 そのロンドン世界選手権。世界との戦いに敗れて羽田空港に帰国した井上の姿が今でも印象に残っている。その後に撤回するが当時は日の丸“ラスト・ラン”終えた川内優輝の動向をうかがおうとメディアが川内に殺到した。同じ日本代表として戦って来た井上はいないも同然だった。後日、その場面を井上に聞く機会があった。

 「あれはショックでしたよ。次は見てろと、本当に思いましたから」

 自虐気味に話すが、そのときははらわたが煮えくりかえる思いだったに違いない。見返す。負けられない。その思いは翌年のジャカルタ・アジア大会で金メダルという形で結実。表彰式後に偶然、スタジアム内で出くわした。「優勝おめでとう」というと副賞のぬいぐるみを手に「どうですか、やってやりましたよ」と言わんばかりの笑顔で応えてくれた。

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 2020年東京五輪への挑戦は夢半ばで敗れたが、負けからの反転攻勢は井上の真骨頂。東京五輪の熱冷めやらぬ日本国内を横目に、9月に行われるメジャー大会の一つ、ベルリンマラソンあたりでしれっと2時間4分台をマークしている姿も夢物語ではない。かつて井上が言っていた。「対アフリカ勢にぶつかって、記録も出てきている。殻を破るためには「勝つ」という行動が大事になってくる」。いまは心身の疲労をとり、次への英気を養うという。今後の展望はまだ考えられないというが、再始動して勝利を追い続ける“小さな巨人”の動向に注目していきたい。(記者コラム・河西 崇)

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