仏記者が迫るハリル新監督 厳格指導に反発…メディアは“独裁者”扱い

[ 2015年3月15日 09:50 ]

フランスで「独裁者」のレッテルを貼られたハリルホジッチ氏

 「フランスには恩があるんだよ」。バイド(バヒドのフランス語読みでハリルホジッチ監督のフランスでの愛称)はよくこう繰り返す。フランスは81年に選手としての彼を迎えたが、90年代前半に母国ユーゴスラビアで民族紛争が起こった時にも、再び彼と家族を受け入れてくれたからだ。

 バイドがフランス国籍を取得したのもこの時期、95年だった。本格的に監督業にも挑戦。ユーゴスラビアの監督ライセンスは持っていたが、現場経験はほとんどなかった。そんな彼に手を差し伸べたのはフランス2部の小クラブだったボーベ。「あのクラブは私の人生を救ってくれた」

 しかしボーベの監督業は93~94年シーズンの1年で終了。監督組合会長のギー・ルー(オセール監督)が、フランスの監督にふさわしいライセンスを取得していないと非難したことが大きな要因だった。以後、3年間も失業。自費でリッピ、カペッロら名将の練習を勉強しに行くなど、必死の努力の末に監督ライセンスを取得した。

 97~98年に率いたモロッコの強豪ラジャ・カサブランカをアフリカ王者に導いたことで評価を上げ、98年にリール監督に就任。おう吐する選手が出るほどの厳しい練習を課し、当時フランス2部17位に低迷していた名門を再建した。1部復帰した00~01年にいきなり3位となり、欧州CL出場権を獲得。バイドは年間最優秀監督に輝いて、一流指揮官の仲間入りを果たした。だが、栄光は長く続かなかった。

 会長との関係悪化などで02年夏にリールを退団したころから「てんぐになっている」という中傷や風評が出回り始めた。03年に熱望した古巣パリSGの指揮官に就任。03~04年は2位となったが翌年に状況が暗転した。

 「メディアは、私と選手の間にありもしなかった問題をわざとつくり出した」と後に振り返ったように、選手との関係が悪化。早朝からの練習、練習開始の1時間前到着、宿舎でのテレビゲーム禁止など、前任者に比べて厳格な規律を導入した“バイドの専横”に不満が噴出した。また報道陣とも対立し、何人かの記者には出入り禁止まで言い渡した。さらに審判とも衝突して2カ月のベンチ入り禁止処分を受け、そのイメージは悲劇的な様相を呈し始めた。風刺人形劇で有名な人気番組「ギニョル・ド・ランフォ」では、こわもてバイド人形がロシアなまりで話し、軍隊式に命令を下すなど、旧ソ連の独裁者のイメージが定着した。

 リールで成功した厳しい指導がパリSGでは失敗。外国人で好ポストに就いたことに嫉妬した人々、それをあおって売り上げを伸ばそうとするメディアの思惑などにも足を引っ張られ、欧州CL敗退後の05年2月に解任された。“独裁者”のレッテルを貼られたまま、バイドはフランスのピッチから姿を消した。 (フランソワ・ヴェルドネ/フランスフットボール誌、翻訳=結城麻里通信員)

 ◆フランソワ・ヴェルドネ 1972年11月17日、フランス生まれの42歳。ブザンソン大、パリのジャーナリズム学院を卒業後、96年フランスフットボール誌入社。02年からフランス代表担当。移籍部門責任者。ハリルホジッチ氏とは15年来の親交を持つ。

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