【内田雅也の追球】いかなる打撃理論にも倚りかからない自分を持てるか

[ 2022年2月18日 08:00 ]

<阪神宜野座キャンプ> アメリカンノックを見守る矢野監督(左から3人目)ら首脳陣(撮影・大森 寛明)
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 詩人・茨木のり子は『わたしが一番きれいだったとき』で知った。15歳で日米開戦、19歳で終戦を迎えた。

 キャンプ取材で沖縄にいると、戦争の傷跡に出くわす。阪神がキャンプを張る宜野座村も球場そばに鎮魂や平和の碑が建ち、孤児院跡がある。

 17日は茨木の命日だった。2006年、東京・東伏見の独り暮らしの自宅でくも膜下出血から急逝した。79歳だった。

 73歳の1999年10月に出した『倚(よ)りかからず』(筑摩書房)は詩集では異例の15万部超のベストセラーとなった。表題作は<もはや/できあいの思想には倚りかかりたくない/もはや/できあいの宗教には倚りかかりたくない/もはや/できあいの学問には倚りかかりたくない>と続く。そして――。

 <じぶんの耳目/じぶんの二本足のみで立っていて/なに不都合なことやある/倚りかかるとすれば/それは/椅子の背もたれだけ>

 後藤正治が<茨木が保ち続けた凜(りん)とした姿勢、それは人格といっても品性といっても自立性といってもいいが>と『清冽(せいれつ) 詩人茨木のり子の肖像』(中公文庫)に書いている。だが同書を読むと、茨木は「自分」に出会うまでいかに苦しんだかがわかる。エッセー『はたちが敗戦』で<暗い大海原のまっただなかでたった一人もがき苦しむようなのが、どんな時代でも青春の本質ではないか? と思うことがある。それほどに自分を掴(つか)まえ捉えるというのは難しく苦しい作業だ>

 この日、宜野座村野球場で阪神元監督の藤田平と一緒に練習を見た。市和歌山商(現市和歌山)から阪神入りする際、藤田は父・正雄から言われた「8年間は辛抱して努力しろ。青春を8年ずらせ」を忠実に守った。独身寮「虎風荘」で皆が遊びに出る夜、すすんで電話当番となり、誘いを断って、バットを振った。

 キャンプで毎日のように打撃を指導するコーチが代わっているのを藤田は案じているようだった。いかに多くの指導者がいても最後に信じられるのは自分でしかない。孤高の打撃職人の目がそう言っていた。

 現役選手たちは何歳であろうと、いま青春の最中にある。いかに自分と出会うか。もはや、いかなる打撃理論にも倚りかからない自分を持てるか。もがき苦しむ日々なのだろう。=敬称略=(編集委員)

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