新庄BIGBOSS 捕手ノムさんに投げたかった――別れのトス しのぶ会で報告「監督になりました」

[ 2021年12月12日 05:30 ]

野村克也氏をしのぶ会 ( 2021年12月11日    神宮 )

献花台に向けて花を投げ入れる新庄監督 

 戦後初の3冠王を獲得し、監督としては4球団を率いて3度の日本一に輝き、昨年2月に84歳で死去した野村克也氏をしのぶ会が11日、神宮球場で開催された。関係者600人が参加し、約2800人のファンが献花に訪れた。阪神時代の教え子である日本ハム・新庄剛志監督(49)は、かつて恩師が愛用したベルサーチのジャケットを仕立て直して着用して参加。野村野球に新庄流を加えた、新たな監督像で戦い抜く意気込みを示した。

 最後のキャッチボールだった。献花台の前に立った新庄監督は目を閉じて、野村氏に語りかけた。「監督になりました。一番、驚いているのは野村さんでしょうね…」。手にした真っ白な花は、写真に向かって投げた。「“受け取ってください”と。二刀流もしたから。受けてもらいたかった」。阪神時代に投手挑戦を提案した恩師へ、新庄流の献花だった。

 99、00年の2年間、阪神で監督と選手としての時間を過ごした。「教えてもらった野村の考えを、もの凄く今、インプットしている」と「野村の考え」を指揮に生かす。恩師の口調をまねて「“わしの考えプラスお前の宇宙人的考えがミックスされたら、もしかして面白いチームになるんじゃないか”とは言ってくれると思います」と自信も口にした。

 「プロ野球のお父さんです」と振り返る濃密な関係。恩師がベルサーチの洋服を好むようになったのは、自身の勧めがきっかけだった。この日のグレーのジャケットもベルサーチ。息子の克則氏に頼み込み、生前、野村氏が着ていたものを譲り受けて「5、6万円」かけて仕立て直した。「クリーニングもせず。においもまだちょっと残っている感じです」。袖は少し短いが、同じく譲り受けた黒いタートルネックとともに、恩師のぬくもりに包まれた。「シーズン中にちょっと困った、連敗が続いた時にでも、気分転換でこのセットを着て球場に行けたらうれしい」とも話した。

 監督就任後、俊足打者の4番起用など次々と仰天プランを打ち出す。「野村さんも分からないと思いますよ、どんな野球をするのか。“わしが教えた通りの野球をするのか。いや~せんやろうな。どんなんやろ。楽しみやな”と」と冗談めかした。「新庄剛志らしく、野村さんから教えてもらったことをやりつつ、自分の考えを持って、新しい監督像をつくって“いいシーズンでした”ということを報告したい」。ベルサーチ社は公式サイトでコンセプトをこう説明する。「力強く、恐れを知らないデザインで受け継いだものを表現する」。新庄監督の今、そのものだ。(春川 英樹)

 ≪昨年3月予定もコロナ禍で延期≫当初は「本葬儀」としてお別れの会が昨年3月に予定されていたが、新型コロナウイルス感染拡大の影響で延期。今回、野村氏が在籍したヤクルト、楽天、阪神、ソフトバンク(前身の南海時代)、西武、ロッテの6球団が共同発起人となり「しのぶ会」が行われた。追悼試合も昨年3月に開催予定だったが、同様に延期。今年3月28日のヤクルト―阪神戦、野村氏の誕生日である6月29日の阪神―ヤクルト戦が、いずれも追悼試合として行われ、3月の試合は両軍の選手、コーチが背番号「73」でプレーした。

 【新庄監督が語った野村氏との思い出】

 ☆ミーティング短くして 99年の春季キャンプ。ヤクルトの選手からミーティングが2時間近いと聞き、初日に部屋をノック。「初めまして新庄です。お願いがあります。人間の集中力は学校の授業と一緒で45分なんです。だからミーティングを45分にしてください」とお願い。野村監督は「そうか、確かにな…。じゃあ5分延ばして50分でいいか」と応じた。

 ☆そりゃ4番でしょう 00年、野村監督に「何番を打たせたら気合入れてくれるんや?」と聞かれて「そりゃ4番でしょう」と即答。「そしたら次の日から4番でずーっとシーズン終わるまで。あの4番がなかったら僕はメジャーにスカウトされていない」。28本塁打、85打点はキャリアハイだった。

 ▽ベルサーチ ジャンニ・ベルサーチ氏が78年に設立したイタリアの高級ファッションブランド。同氏はジョルジオ・アルマーニ氏、クリスチャン・ディオールのデザイン責任者だったジャンフランコ・フェレ氏とともに敬意を込めミラノの「スリーG」と称された。ゴージャスさとセクシーさが注目され、80年代のバブル経済期に大人気に。セレブ御用達ブランドに定着した。18年末に多国籍ファッション持ち株会社カプリが21億ドル(約2400億円)で買収した。

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