【内田雅也の追球】“追悼試合”を見ていたら――「野村目線」で見た阪神

[ 2020年2月12日 08:00 ]

練習試合   阪神5―0日本ハム ( 2020年2月11日    名護 )

<練習試合 日・神>3回、二盗を決める高山(撮影・坂田 高浩)
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 野村克也の訃報を受けての練習試合だった。名護市営球場には半旗が掲げられ、試合前には黙とうをささげた。

 電光板には阪神監督時代の写真が掲示されていた。元監督を悼む阪神球団の意向が働いた、いわば追悼試合だった。

 1999年―2001年、野村は阪神監督だった。3年間とも最下位だったが、後の2003年優勝の礎を築いたとの評価があるのは確かだ。

 阪神監督時、選手やスタッフに配布したミーティング用の教則本『ノムラの考え』を見せてもらったことがある。表紙に「秘」と大書され、冒頭はいわば人間論が展開されていた。<野球の専門家であるという自覚を持ってもらいたい>とうながした。

 そんな野村がもし、この日の練習試合を見ていたら、どう思っただろう……という視点で見た。

 称賛したと思われるのは盗塁である。1回表2死から右前打で出た糸原健斗が次打者・大山悠輔のカウント2ボール―2ストライクから走り、二塁を盗んだ。3回表も2死一塁で高山俊が2―1から二盗を決めた。

 ともに、投球は低めへの変化球だった。球速は落ち、捕手の捕球・送球も時間がかかる。相手バッテリーの配球を読み、走るべきタイミングで走ったわけである。

 自身が捕手で盗塁阻止を追究していた。特に「世界の盗塁王」と呼ばれた福本豊(当時阪急)の二盗阻止に懸命だった。

 そこで編み出したのが投手のクイック投法である。足をあまり上げずに横滑りさせて投げる。大リーグで言う「スライドステップ」を定着させたのは野村の功労である。

 阪神が先発に抜てきした左腕・飯田優也は3回零封の好投だった。ベンチ裏で偶然、登板直前の彼と出くわし、裏方さんとの会話を耳にした。緊張している様子を知った。この結果に胸をなでおろしたことだろう。

 光ったのは低めへの制球で、6個の内野ゴロが証明している。なかでも3回裏2死、前打席で左翼線二塁打を浴びていた松本剛を2―2から二ゴロに取った投球は見事。臨時コーチ・山本昌直伝のスクリューで泳がせ、打ち取った。

 野村は「投手は1つの変化球で変われる」と話していた。阪神時代、左腕・遠山奬志にシュートを習得させ、松井秀喜(当時巨人)キラーとして復活させた。

 残念だったのは大山悠輔だろうか。3回表無死一塁での二ゴロ併殺は当てたような打撃だった。カウントは1―0、強振すべき状況だった。

 隣には現役時代、同じ「4番サード」でならし「ミスター・ロッテ」と呼ばれた有藤通世(本紙評論家)がいた。有藤は「結果ではなく、残念なバッティングだった。あえて“思い切って振れ”と指示する必要があるのかもしれない」と話していた。

 野村は「4番は育てるのはでなく、出会う」が持論だった。野村自身、現役時代、歴代2位の通算657本塁打、三冠王にもなった強打者だった。南海時代は4番を務めた。当初の監督、鶴岡一人は野村と「出会った」ということだろうか。ともあれ、大山には4番の素質があると信じたい。=敬称略=(編集委員)

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