内田雅也が行く 猛虎の地<番外>「香櫨園」阪神が野球と出会った大遊園地

[ 2019年12月9日 08:00 ]

香櫨園にあったウヲタシユト(ウオーターシュート)の絵はがき。裏面には「香櫨園動物園明治42年9月10日」と押印がある=西宮市情報公開室所蔵=
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 【(番外)香櫨園】

 阪神電鉄と野球との関わりは香櫨園に始まる。1910(明治43)年秋に行われた関西初の国際野球試合、早稲田大―シカゴ大戦の会場だった。

 香櫨園とは今の阪神電鉄・香櫨園駅周辺ではない。同駅から北へ徒歩10分ほど、阪急電鉄・夙川駅の南西、阪急とJR神戸線にはさまれた一帯で、土地の所有者だった大阪・北浜の砂糖商人・香野蔵治と櫨山(はぜやま)慶次郎の名をとって香櫨園と名づけられた。

 約8万坪(約26・4万平方メートル)、甲子園球場7個分の広大な土地に07(明治40)年4月、香櫨園遊園地が開園している。恵比寿ホテル、香櫨温泉、動物舎、奏楽堂、博物館、メリーゴーラウンド、ウオーターシュート(船すべり)、運動場……などがあった。阪神電鉄は新たに香櫨園駅を設置し、資金援助するなど経営にも参画していた。

 10年秋、早大が当時米国中西部最強と言われたシカゴ大を招くことになった。関西でも国際試合を計画した大阪毎日新聞(大毎)は早大と交渉する一方、会場を物色したが、当時関西には適当な球場がなかった。

 大毎から持ち込まれた話に阪神電鉄は時の技術長・三崎省三が応じた。香櫨園遊園地の運動場内に、わずか2週間で野球のグラウンドを造り上げたのだった。

 三崎とは後に専務として24(大正13)年、甲子園球場建設を指示した責任者。スタンフォード大、パデュー大と米国留学経験があり、スポーツにも親しんでいた。

 仕上がったグラウンドは約5000坪(約1万6500平方メートル)あったが、左翼に長い長方形。恐らく右翼90メートルほど、左翼は170メートルほどだったとみられる。しかも左翼は55メートルを過ぎた辺りから下り坂になっていた。

 「グラウンドというより広っぱ」と当時早大マネジャーで試合では審判を務めた西尾守一(後に大毎運動部長)が語っている。「関西最初の国際野球戦」と題した回顧談で、阪神電鉄社史『輸送奉仕の五十年』にある。「急造のこととて柵もスタンドもない。(中略)左翼の方は本塁から三十間ほどのところからダラダラのスロープとなり、ここへ長打をカッ飛ばされると、追っかけてつかんでもどこへ送球したらよいのかサッパリ分からぬといった大変なグラウンドであった」

 大毎は10月23日付の新聞で「早稲田、市俄古(シカゴ)、大野球戦」と8ページ建てのうち見開き2ページを割いて特集を組んだ。早大の主将・飛田忠順(穂洲)や松田捨吉、大村隆行、三神吾朗……シカゴ大の投手ページら主力選手を写真入りで紹介、野球のルールや観戦マナーを伝えた。「都の西北」と早大校歌の歌詞も載っている。

 24日夜、両チームが来阪。大阪駅では在阪学生有志約500人が出迎えた。「四十三年秋の 気も澄む月今宵(こよい) 来たれり大阪に 日米野球団……振(ふる)へ市俄古軍 立てよ早稲田勢」と「歓迎歌」を合唱した。宿舎の大阪・中之島「大阪ホテル」までちょうちん行列で祝った。

 25日の第1戦。香櫨園駅から北へ大行列が続いた。神戸外国人団、早稲田校友会、愛知一中、神戸商業、大阪商業、神戸入江小学校……など団体客に加え、女性の姿も多く見られたという。スタンド整備が追いつかず入場は無料だった。入場者は3万人と記事にある。

 大阪市長・植村俊平の始球式の後、午後3時に試合開始。ただし「市軍と早軍とは全くの段違い」(神戸新聞)との力量差があった。第1戦は4―8。26日は怪腕ページにわずか1安打で0―20の惨敗、27日も2―12で敗れた。

 東京での4敗も含め7戦全敗となった早大の主将・飛田はその責を負って選手を退いた。後に「学生野球の父」と呼ばれる飛田は当時の酷評を著書『熱球三十年』(中公文庫)で<これを招へいして大敗した早稲田というものは、まったく攻撃の中心となった>と記している。シカゴ大との交流は定期戦となって続き、飛田は監督として25(大正14)年に宿敵に雪辱を果たし<生涯を通じての吉日>を迎える。

 いま、当時の香櫨園をしのぶのは難しい。ウオーターシュートのあった内澱池は片鉾池としてたたずんでいる。=敬称略=(編集委員)

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