【内田雅也の広角追球】33年前の雪辱へ―王者・智弁和歌山に挑む古豪・桐蔭 監督「先人の思いも背負う」

[ 2022年7月28日 17:09 ]

33年前の和歌山大会決勝。智弁和歌山延長13回裏2死満塁、永井の右前サヨナラ打で甲子園出場を決め、大喜びの智和歌山弁ナインとベンチで手をたたく高嶋監督、うなだれる桐蔭捕手・佐々木(1989年7月28日、紀三井寺球場)
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 あの時、桐蔭(和歌山)の選手たちはその場でへたり込んだ。1989(平成元)年夏の和歌山大会決勝。智弁和歌山に延長13回、サヨナラ負けした瞬間だ。紀三井寺球場記者席で息をのんで見つめていた。

 最後は2死満塁からの右前打で右翼を守っていた背番号「1」の前川敦英(50)がライトゴロを狙おうとしていた。

 一塁ベンチでは当時43歳の監督・高嶋仁(76)が両手をたたき、西日を受けた三塁ベンチでは当時49歳の監督・河野允生(故人)がグラウンドをにらんでいた。

 7月28日、33年前のこの日だった。時を経て、桐蔭は29日、再び和歌山大会決勝で甲子園出場をかけ、智弁和歌山と戦う。

 「忘れられませんね」と当時コーチだった大原弘(56=現和歌山大監督)が言う。「河野監督が“全国で勝てるチームをつくろう”と、よく練習しました。夜、公園や監督の家でバットを振っていたら、日付が変わっていたこともありました」

 桐蔭は河野の下、この3年前(1986年)の夏、25年ぶりの甲子園出場を果たしていた。1回戦で宇都宮工(栃木)に2―3で敗れ、「全国で勝てるチームを」と目標を高めていた。この甲子園出場を中学3年時に見て入学してきた17人は粒ぞろいだった。

 3年生となった89年は春季和歌山大会で優勝し、近畿大会では天理(奈良)と9―11の打撃戦を演じた。自慢の打線は夏の和歌山大会でもふるい、大会通算最多打点37(5試合)の新記録(当時)をつくった。

 準決勝で優勝候補双璧だった小久保裕紀(現ソフトバンク2軍監督)の星林に7―2と快勝。智弁和歌山との決勝に臨んだのだった。ところが、自慢の打線が「隠し玉」の変則投法、小久保隆也(小久保裕紀弟)を打てず、1―2で敗れた。

 大原によると、当時の3年生のうち2人が今、和歌山県高野連の審判員をしている。高校球児を陰で見守り、励ましながら汗をかいている。彼らは「甲子園を目前にして負けた、あの日の悔しさがあるから、今も高校野球に携わっている」と話していたという。

 当時の和歌山は戦国模様で勢力地図が塗り変わる途上にあった。智弁和歌山はこの89年は夏2度目の甲子園出場で、未勝利だった。箕島も全盛期の強さはなかった。

 智弁和歌山は93年夏に甲子園初勝利をあげ、94年春、97年夏と全国制覇し、黄金時代を迎えることになる。

 「ユニホーム負けしないことです」とOBの貴志弘顕(25)が話していた。この日、差し入れを手に決勝前日の練習をする母校を訪れた。貴志は投手として2012年準決勝、14年2回戦と夏に2度、智弁和歌山に敗れている。「1年生の時は怖いもの知らずで向かっていった。3年生になると自分から勝手に崩れてしまった。必要以上に恐れないことです」

 この日は午前8時すぎからミーティングを行い、智弁和歌山対策を練った。監督・矢野健太郎(32)が睡眠時間を削り、VTRを繰り返し見て、考えてきた。相手は夏の甲子園大会連覇がかかる強敵だが「勝てるイメージしか浮かんでこない」とプラス思考で挑む。「こんな大きなチャンスがきている。勝って、つかみ取りたい」

 9時から約3時間の練習も部長・山田隆裕が「浮かれた様子はない」と話し、活気や闘志がみなぎっていた。

 校長の笹井晋吾もグラウンドを訪れ、矢野に「普段通りの力を発揮してください」と激励していた。準決勝で和歌山東を10―0で破った直後から、歴代校長など、応援の電話やメールが相次いだそうだ。気の早い関係者からは甲子園出場時の準備を持ちかけられたそうだ。

 学校や同窓会では生徒、教職員、卒業生ら希望者を募り、バスで球場への送迎を行うことを決めた。数百人規模の応援団が後押しする。

 「多くのOBの方々の思いも背負って、みんなで戦います」と矢野は言った。89年は自身が生まれた年でもある。

 旧制・和歌山中からの伝統校が新たな歴史をつくろうと王者に挑む。 =敬称略= (編集委員)

 ◆内田 雅也(うちた・まさや) 1963(昭和38)年2月、和歌山市生まれ。78年4月開校の智弁和歌山1期生とは同級にあたる。桐蔭時代に対戦した智弁和歌山のユニホームは茜(あかね)色ではなく紺色だった。和歌山中・桐蔭高野球部OB会関西支部長。

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