ぜんそく、リンク閉鎖、東日本大震災、負傷…羽生は数々の困難乗り越えた不屈のスケーター

[ 2022年7月20日 05:25 ]

羽生結弦 プロスケーター転向

プロスケーター転向を発表した羽生
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 【羽生という男】羽生は数々の困難を乗り越えてきた不屈のスケーターだ。氷に乗り始めた幼少期から、生まれつきのぜんそくに悩まされた。低気圧が近づく日や、追い込んだ練習をした日には発作が起こった。だが、それは日常。「何も特別なことではなかった」と振り返る。困難を抱えていたことに気づいたのは、つい最近だと振り返る。

 小学4年時にフィンランドでの国際大会に出場して優勝。「海外でも金メダルを獲れる!」と高揚した直後に、練習で通っていたリンクが閉鎖した。「伸びきれないつらさ」も味わいながら、努力を続けてきた。

 シニア1年目の2011年3月には、東日本大震災で被災した。東北高の試験休み中、アイスリンク仙台での練習中だった。「四つんばいで、とにかく靴だけは、エッジだけは持って外に出た」。数日間は避難所生活。その後は、アイスショーの招待を受けながら、拠点を転々とした。「スケートやっていいのかな」。同年末の全日本選手権後に目を通した応援の手紙や年賀状を見ると、その葛藤は消えた。「こんなにも応援してもらえてるんだ」。

 一気にスターダムを駆け上がると、圧倒的な演技の代償で度重なる負傷を経験した。五輪連覇を達成した18年平昌前は、右足首の負傷で4カ月ほどの空白期間があった。「“本当にスケートのため”と自分の心の中で言えないことは何もしなかった。規定回数が10回、20回の練習だとしたら、もう1回、もう2回やったら強くなれるんじゃないか、とか。本当に小さい一つ一つのことですけど“心に余裕がまだあるんだったらやれ!”と常に追い込んできた」という。平昌のリンクに立った時には「試合に勝つための練習をしてきたから、もう試合の時は勝つことしかない」と感じた。ストイックな生活が、パフォーマンスを呼んだ。

 持病や環境の変化、負傷…。数々の苦難を乗り越えていく中で気づいた。「僕は人生の中で練習できたりできなかったり、ケガしたりするのが凄く多い人間」。銀盤に乗れる時間に限りあるからこそ、決めていたルーティンがある。「練習は120%で、試合は150%。本当に足が力が入らなくなるまでやることは常に決めている」。強い心が、数々の伝説を打ち立てる原動力だった。

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2022年7月20日のニュース