悲痛…加藤茶「コロナ憎い」仲本工事「長さんの次になるとは…」高木ブー「また一緒にコントやりたかった」

[ 2020年3月31日 05:30 ]

TBS「8時だよ!全員集合」で数々の爆笑コントを繰り広げたザ・ドリフターズ(左から)いかりや長介さん、加藤茶、仲本工事、高木ブー、志村けんさん
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 新型コロナウイルスによる肺炎で29日に亡くなった志村けんさん(享年70)の訃報を受け30日、「ザ・ドリフターズ」のメンバー3人が悲痛な胸中を明かした。付き人から始まった志村さんのサクセスストーリー。努力と真面目さでつかんだ成功を、ドリフのツートップとして見届けた加藤茶(77)は「ドリフの宝を奪ったコロナが憎い」と、やり場のない怒りに震えた。

) 視聴率40~50%を稼ぎ「お化け番組」と言われたTBS「8時だョ!全員集合」の人気の中心にいた志村さん。熱狂の時代をともに歩んだドリフの仲間が無念の思いを明かした。

 加藤は「ドリフの宝、日本の宝を奪ったコロナが憎いです」と吐露。感染拡大阻止へ正念場が続く中「皆さんも身近に感じて、気をつけてくださるようお願いいたします」と、これ以上犠牲者が出ないよう切に望んだ。

 04年にリーダーのいかりや長介さん(享年72)が死去。仲本工事(78)は「ドリフも順番で逝く年になったとは思ったけど、一番若い志村が長さんの次になるとは…非常に悔しいです」と絶句した。

 高木ブー(87)は、17年にフジテレビ「志村けんのだいじょうぶだぁスペシャル」で、12年ぶりに4人がそろってコントをした思い出に触れ「“高木さんも80歳すぎて頑張ってるんだから、自分も頑張らなきゃなぁ”って言ってたよね。また一緒にコントやりたかったのに」と悔やんだ。

 志村さんは「全員集合」開始時「ボーヤ」と呼ばれる付き人だった。故荒井注さんの脱退で74年にドリフ加入。高校時代に影響された喜劇俳優ジェリー・ルイスさんの、ちょっとしたしぐさや目の動きで笑いを生むスタイルが「東村山音頭」や加藤との「ヒゲダンス」などにつながった。

 舞台では、いかりやさんに一番ふてぶてしく抵抗する姿が支持を集めた。しかしそれは舞台だけの姿。毎週木曜日から土曜日の3日間、稽古やリハーサルで朝から深夜まで拘束される中、志村さんは常に新しい笑いを求め、楽屋で暇を見つけては最新の雑誌、音楽に触れた。

 「全員集合」はフジ「オレたちひょうきん族」との視聴率争いに敗れ、85年に終了。しかし翌年、同じ土曜8時の放送枠で加藤と「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」を開始。「土8戦争」と呼ばれたし烈な視聴率争いで、長年にわたり主役に君臨してきた。

 ソロに転じると、コント作りのペースは1日最低15本、1年で650本に。誰よりも真面目にバカを追求した志村さんのストイックさをかつて仲本は「加藤は天才、志村は秀才」と評した。志半ばでの死去。17歳年上の高木は「志村早すぎるよ、俺より先に逝くなんて…」と悔やんだ。

 ◆1956年に「マウンテンボーイズ」と「東京ウエスタンボーイズ」が合併して音楽バンドの「サンズ・オブ・ドリフターズ」を結成。一時は坂本九や小野ヤスシも名を連ねた。62年にいかりや長介、加藤茶が加入。64年にいかりやが3代目リーダーに就任し、荒井注、高木ブーが加入。65年に仲本工事が加入し5人で「ザ・ドリフターズ」としての活動を開始した。66年にはザ・ビートルズ日本公演の前座を務めた。68年に志村けんが付き人として加入。コミックバンドとしての活動から徐々にお笑い活動が中心となり、69年に「8時だョ!全員集合」の放送がスタートした。70年には「ドリフのズンドコ節」で日本レコード大賞大衆賞を受賞。2001年に「ドリフのほんとにほんとにご苦労さん」で紅白歌合戦に初出場。85年に「8時だョ!全員集合」が終了すると、その後はグループとしての活動は特番などに限られていった。00年に荒井、04年にいかりや、20年に志村が死去。 (敬称略)

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