内田裕也さん 2度目の都知事選出馬を検討していた 取材30年の番記者が振り返る 

[ 2019年3月19日 09:00 ]

内田裕也さん死去

91年3月、新宿の都庁舎「とみんの広場」の掲示板に自らのサイン入りポスターを張る内田裕也さん
Photo By スポニチ

 東日本大震災が起こった2011年3月11日、都内ホテルの高層階にある喫茶ルームで裕也さんを取材していた。それが縁で、翌年から3月11日になると、東京都千代田区の国立劇場で営まれる震災犠牲者追悼式に一緒に参列してきた。

 「今年はどうしましょうか?」とマネジャーさんに尋ねると、前日の10日に「大事を取って欠席します」の返信があった。「体調が思わしくないので養生したい」が理由だったから、心配していたが、まさかこんなに早く別れが訪れるとは思いも寄らなかった。

 かれこれ30年ほど、そばで取材させてもらった。こわもてで、近寄りがたいイメージがあったが、いったん懐に飛び込めばどこまでも温かい人だった。昨年の3・11、追悼式後に都内ホテルの寿司店で熱かんで献杯したのが最後に酌み交わした酒となってしまったのが寂しい。

 電話はいつも前触れなし。米ハワイからかかってきたこともあった。震災直後の11年4月に行われた都知事選だったと記憶しているが「もう一回、挑戦しようと思う」とつぶやいて書類をそろえたこともあった。結局、出馬は見送ったが、着信音が鳴るたびにドキドキしたものだ。

 「空き巣にやられた!」と、えらいけんまくで吠えた声も耳に残っている。裕也さんが東京都世田谷区太子堂に住んでいた10年以上も前の話。盗難品の中に希林さんから贈られた時計が含まれており、余計に腹が立ったのだろう。希林さんを「K・Kさん」とイニシャルで呼ぶなど照れ屋さんだったが、心の底でつながった夫婦だったと今さらながら思う。

 私事で恐縮だが、13年7月、父親が亡くなり、北海道釧路市で営まれた通夜に裕也さんが参列してくれた。ことし七回忌を迎える。あの世でしっかり礼を言うようにと親父の遺影に手を合わせた。(佐藤 雅昭)

続きを表示

2019年3月19日のニュース