内田裕也さん 貫いた「むき出しの人生」 主義主張持ちながら粗野な言動で蛮行に

[ 2019年3月19日 09:00 ]

内田裕也さん死去

内田裕也さん
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 【悼む 小西良太郎】1981年、離婚届の件は、勤め先近くの東京・芝のホテルで報告を受けた。本人と夫人の欄に勝手に印鑑を押したと言う。「それは効力がない」と説得したが「渋谷区役所はちゃんと受理した」と強弁する。記事にしてもいいと付け加え、彼はその足でハワイへたった。騒動になった帰国後、友人の弁護士を紹介する。敗訴するにせよ、泥沼化しないためのせめてもの友情だ。

 91年、都知事選出馬の相談は、赤坂のホテルで受けた。翌朝の立候補届け出には、仲間の記者を同行させ取材した。やむにやまれぬ情熱を止める理由はなかった。

 かけてくる電話はいつも、冒頭に「ロックンロール!」で、要件が手短にあり、おしまいは必ず「ヨロシク!」だった。思い込みが激しく、口下手、独特の裕也弁だから、対応に慣れた“番記者”をつくった。離婚騒ぎ当時は河原一邦、晩年は長く佐藤雅昭記者。スポニチと彼はなぜかウマが合ったが、個人に担当をつけた例は他にない。

 希林夫人との関係を、彼はジョン・レノンとヨーコ夫人に見立てていた。双方強烈な個性の持ち主で、それを尊敬しながら危険な衝突をはらむ。別れの覚悟の裏には、あの時期彼には余裕のなさや疲れがあったろうか。

 いつも「怒り」と「いらだち」を抱えていた。ロックンロール魂は「生き方」そのものに根ざす。都知事選は政治への関心を示し、事業仕分けの現場へ出かけるのは、市民の一人としての意識だった。ロック界を主導、後進に道を開きながら、ロックがビジネス化することを嫌った。

 彼なりの主義主張を持ちながら、言動が粗野で衝動的だったから、蛮行、愚行につながることが多かった。それを自己矛盾と知りながら、彼は内田裕也という「むき出しの人生」を貫いた。起爆剤が夫人の言う「ひとかけらの純」だとすれば、彼の「グッドラック」の79年の生涯は「怪男児」に見えて、実は「快男児」だったのかもしれない。 (スポニチOB、音楽評論家)

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