早世の「王2世」阿部君の思い出

[ 2019年1月14日 08:00 ]

「魂の一発“王二世”阿部」と早実の甲子園出場を伝える1978年7月30日付のスポニチ本紙
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 【内田雅也の広角追球】1月14日は「阿部君」の命日だ。早稲田実1年生だった阿部淳一選手である。1979(昭和54)年のその日、バイク事故で亡くなった。

 当日は日曜日。午後3時まで練習し、下校途中に会った友人のバイクを借りた。免許交付の数日前、つまり無免許だった。4時すぎ、東京・調布市内の通称・鶴川街道の右カーブでコンクリート塀に激突、頭を打った。時速80キロ出ていたそうだ。ほぼ即死だったという。16歳と2カ月の短い生涯だった。

 同じ左の強打者として早実の偉大な先輩、王貞治選手を継ぐ男、「王2世」の異名をとった。

 78年7月29日の東東京大会決勝(神宮)、帝京戦。6―10と4点ビハインドの7回表、代打で登場し、右翼席に3ランを放った。1点差と迫り、8回表に逆転して甲子園出場をつかんだ。

 この試合をタレント、ビートたけしさん(71)はスタンドで観ていたそうだ。2015年8月1日放送の朝日放送(ABC)特別番組『高校野球100年の真実〜心揺さぶる真夏のストーリー』で語っていた。たけしさんは高校野球の思い出に残る選手に阿部君の名前をあげた。

 「漫才が嫌になり、辞めようと思っていた。事務所に“風邪ひいた”と言ってサボり、神宮に見に行ったんだ」

 漫才ブーム(80年)で脚光を浴びる前、売れないころだった。

 「ものすげえホームランだった。これが1年生か。すごい選手が現れたと思った。ところが、次の大会には出てこない。聞いたら交通事故で亡くなったって。おれはあの時、阿部選手の、生命力を燃焼させたようなホームランを見て、漫才を続けようと思った」

 希望を与えるようなライナー性の大飛球だった。余談だが、この時、同じ神宮のスタンドに、とんねるずの石橋貴明さん(57)もいた。帝京野球部員として応援席にいたそうだ。

 「生きていれば、とんでもないバッターになっていた」と思ったのはたけしさんばかりではない。翌80年、早実は1年生の荒木大輔投手を擁して夏の甲子園大会で準優勝する。阿部君が生きていれば3年生。横浜・愛甲猛投手との名勝負を演じていただろう。その強打が甲子園にとどろいていただろう。

 阿部君とは同じ学年だった。同世代のヒーローだった。1度だけ会話したことがある。

 75年8月7日の神宮球場。リトルリーグ全日本選手権の開幕前日、出場チームは開会式リハーサルを待つ間、スタンドに座っていた。

 調布リトルの下級生だろう、小さな子がわが和歌山リトルの席まで来て言った。「ねえ、内田君ってどの子? 阿部君が呼んでるよ。お話したいって」

 驚いた。当時から阿部君の剛腕・強打は知れ渡っていた。ゴールデンウイークに和歌浦のグラウンドで練習試合をして惨敗している。阿部君にも右中間に本塁打を浴び、高め速球に空振り三振を喫していた。後の関西大会で優勝した投手が気になったのだろうか。

 「僕だけど」と名乗り出て、阿部君の待つ席まで行った。「やあ」と屈託ない笑顔で迎えてくれた。「退屈でしょ。話しようよ」

 スパイクのサイズ、長い練習時間、好きなテレビ番組やアイドル、ラジオの深夜放送……。「じゃあ、決勝戦で会おう」と言って別れた。

 残念ながらこちらは準決勝で敗れ、対戦はかなわなかった。阿部君の調布は大会史上初の5連覇を果たした。

 高校入学後、すでに「王2世」だった早実の阿部君と甲子園で再戦するシーンを夢想して、シャドーピッチングをやり、バットを振った。阿部君は夢と希望のスターだったのだ。

 だから、悲報を新聞で知った時は絶句した。高校には和歌山リトル出身者が3人いた。寒風吹きすさぶ母校グラウンドで東の方を向いて黙想し、冥福を祈った。

 亡くなってから、もう40年。あの剛球、あの強打、そしてあの笑顔を思い出し、手を合わせた。(編集委員)

 ◆内田 雅也(うちた・まさや) 1963年2月、和歌山市生まれ。和歌山リトルリーグ時代は関西大会春夏連覇。桐蔭高(旧制和歌山中)時代はノーコンのダメ投手だった。慶大文学部卒。2007年から大阪紙面でコラム『内田雅也の追球』を連載、今年13年目を迎える。

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