第15回 ジャイアンツ球場で終わるのが僕らしい

[ 2008年8月16日 06:00 ]

06年9月24日、イースタン・湘南戦。残留を望むファンの前で、巨人最後のマウンドに立つ

 巨人からの戦力外通告は、ジャイアンツ球場で最後に投げた06年9月24日の数日前だった。話し合いの場所に向かう車の中で、通告は覚悟していた。でも実際に「戦力として来年考えていない」と言われてみると、やはりショックというか…。それでもその言葉を聞いたのと同時に、自分の中では結論が出ていた。02年にタイトルも獲らせていただき復活した感じはあったけど、その後に故障も増えだして…。そろそろやめる時が近づいている感じはあったんだ。

  桑田は06年4月13日の広島戦(東京ドーム)で600日ぶりの白星を挙げた。しかし同27日広島戦(広島)を最後に2軍落ち。再び1軍に昇格することはなかった。
 最初は10日間調整して、その後に再登録するからと…。結局、最後までお呼びはかからなかった。当時、一番考えたのは「ジャイアンツの18番」のこと。この背番号は2軍にいちゃいけない。1軍にいて、なおかつチームを引っ張っていける存在でないといけない。万全で下で待機していて1軍に呼ばれなかった。それはもう、チームに必要ないということ。18番をお返しする。それは自分の中で固く決めていた。
  桑田は9月23日に球団ホームページで退団を表明。ラスト登板となった翌24日のイースタン・湘南戦には、ジャイアンツ球場に4000人のファンが集まった。
 ジャイアンツ球場でのシーズン最後の試合。実は吉村(禎章、2軍)監督には、1カ月ぐらい前から「この日がおそらく最後になると思うので、投げさせてください」とお願いしていたんだ。僕が入団した年にできた球場。右ひじ手術後のリハビリもずっとあそこで頑張ったし…。ジャイアンツの18番での最後、努力に努力を重ねたこのグラウンドで終わるのが僕らしい。その姿をファンの皆さんに見てほしかった。
 退団後、最初はメジャーではなく国内の他球団でのプレーを考えていた。そんな時に2人の子供と話をしたんだ。「20歳ぐらいの時にアメリカに行こうとしてたんだ」って。球団から謹慎処分を受け、マスコミに叩かれ、球団に迷惑を掛け…。「もう日本で野球はできない」。それ以来、常に心のどこかにあったメジャーへの思い。「お父さん、行った方がいいよ」。子供たちのそんな言葉でよし、やってみようと。言葉の壁、文化の違い、代理人のいない契約で通訳もいない。今振り返ると、よくあそこまでできたなと思いますね。<紙面掲載 2008年4月30日>

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