張本氏、最も開幕遅かった73年振り返りメッセージ「本拠地以外のチームもドームを使えばいい」

[ 2020年4月14日 05:30 ]

土橋監督(右)の下、兼任打撃コーチを務めた張本氏
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 新型コロナウイルス感染拡大でプロ野球の開幕は全く見通しが立たない状況が続いている。セ、パ2リーグ制後、過去に最も開幕が遅かったのは1973年の4月14日。当時の現役選手で、スポニチ本紙評論家である張本勲氏(79)に47年前のこの日に開幕したシーズンを振り返ってもらい苦境にあるプロ野球界へのメッセージも語ってもらった。

 1973年は張本氏にとって思い出深いシーズンだった。開幕は4月14日。「なぜそんなに遅かったのか覚えていない」。ただ、長い野球人生で波乱に満ちた一年だった。

 前身の東映が日拓へ身売りした1年目。この年からパ・リーグに前後期制が導入され、日拓は前期5位に低迷し、田宮謙次郎監督が辞任した。後期は土橋正幸2軍監督が昇格。張本氏は土橋監督の東京・浅草の実家近くの居酒屋に呼ばれた。「あんちゃん」と慕っていた兄貴分からの呼び出しに「一杯飲もうってことかな」と軽く考えながら足を運ぶと「俺が監督をやるからヘッド兼打撃コーチをやってくれ」と打診された。

 「断る」という選択肢はない。選手兼任でのコーチ業。「奇数の回は監督、偶数の回は私がサインを出した」という。オーダーも任され、選手の打撃指導もこなしたため「首位打者を逃しましたよ」と振り返る。出塁率(・448)こそトップだったが、首位打者は加藤秀司(阪急)に譲った。それでもチームは3位。1週間毎日違うユニホームで臨む「七色のユニホーム」も話題となり「アンダーシャツとかね、みんな色を間違えてましたよ」と懐かしむ。

 この時の兼任コーチは次期監督の含みもあったが、日拓はこの年のオフに日本ハムへ身売り。「監督にもっとやってほしかったし、手伝いたかった」というが、土橋監督は退任し、次期監督の話も立ち消えになった。

 そんな波乱のシーズンだが、当時は130試合制でダブルヘッダーもあった。プレーオフ(5試合)まで順調に日程を消化。日本シリーズ終了が11月1日だった。開幕も不透明な今季について、張本氏は47年前を踏まえ「今年は特殊な年。ダブルヘッダーも選手は納得しますよ。本拠地以外のチームもドームを使えばいい」と提案。さらに「選手はいつ開幕しても“さすがプロ”というプレーを見せられるよう自主練習してほしい」と続けた。

 選手会は全選手に呼び掛け、コロナ対策の寄付活動を開始。「こういう時だからこそ、選手会が頑張ってコロナ対策に役立ってもらいたい」。プロ野球最多の通算3085安打を誇る張本氏は、選手たちに「あっぱれ!」を贈る日を待ち望んでいる。

 ≪1リーグ時代に4・29≫2リーグ制以降では73年の4月14日が最も遅い開幕だが、1リーグ時代にはさらに遅い記録がある。36年春季は米国遠征中だった巨人を除いた6球団が4月29日に甲子園に集まり、第1回日本職業野球リーグ戦を挙行した。38年春季も4月29日に開幕。また、太平洋戦争終了翌年の46年は4月27日、翌47年は4月18日からリーグ戦が始まった。

 ≪菅原文太氏に広島弁を指導≫張本氏にとって73年はグラウンド以外でも思い出深い年だった。この年に封切りとなった映画が「仁義なき戦い」。広島を舞台にしたヤクザ映画で、主演の菅原文太氏に広島弁を指南したのが同県出身の張本氏で「文太さんとは兄弟分にしてもらった。物凄く思い出に残っていますよ」と振り返る。張本氏は前年まで東映の主力としてプレーし、菅原氏はこの映画を機に東映を代表するスター俳優となった。

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