【タテジマへの道】北條史也編<下>被災地への思い胸に

[ 2020年4月14日 15:00 ]

夏の甲子園準決勝で2打席連続アーチをバックスクリーンに打ち込むなど、長打力を発揮した北條

 阪神タイガースの若手選手のプロ入りまでの生い立ちを振り返る復刻連載「タテジマへの道」。本日は北條史也編<下>をお届けします。

 プロへの足がかりを築くことになる光星学院での3年間。母・ゆかりさん(47)は遠く離れた青森への進学について「心配はなかったです。管理もしっかりしているおかげで故障の心配が少なくなる。もし家から通うと、他に誘惑もあるかもしれません。野球に打ち込める環境だったと思います」。ただひたすら白球を追った史也は1年春からベンチ入りした。今季限りで現役引退した金本知憲氏の東北福祉大時代の1学年後輩にあたる仲井宗基監督(42)は「少々のことでは痛いと言わなかった」と振り返る。鉄人と同じように、当時から肉体の強さは際立っていた。

 秋に「3番・遊撃」の定位置を獲得し、青森県大会優勝。東北大会では準優勝した。2回戦・学法福島戦(福島)で左翼越えへ先制弾を放つなど、打率・417の好成績を残しセンバツ切符を手にした。青森にいい遊撃手がいる―。その名は全国に広まっていった。

 3月11日の東日本大震災直後に行われたセンバツでは2試合で1安打。「“夢をかなえられなかった子どもたちもいる。自分たちは幸せだと思ってやれ”、と仲井監督にも言われました」。青森県では沿岸部が被害を受けた。もっともっと被災地を勇気づけたい―。この思いは夏の甲子園で結実する。「5番・遊撃」としてチーム最多タイの8打点。主軸として準優勝に導いた。

 その陰には被災地への思いに加え、地獄のような猛練習があった。

 春の県大会、準々決勝で公立の八戸に2―5で敗れた。夏に向け、これまで以上に過酷な練習メニューが課せられた。「毎日ポール間ダッシュを100本やってからキャッチボール。もう足がガクガク。それを乗り越えたからこそ結果が出た」。練習はウソをつかなかった。

 最終学年となった3年、春も夏も攻守にわたる活躍で甲子園決勝進出に導いたが、ともに大阪桐蔭に敗れた。それでも、不安定だった守備面で大きな成長を見せた。多くの経験を経た史也はドラフト2位指名を受け、17日に契約金7000万円、年俸720万円で仮契約した。

 「これからは野球が仕事になる。社会人になるわけですし、自分の行動にも責任を持って、頑張っていきたい」。幼い頃から父・映彦さんに連れられて何度も甲子園に足を運んだ。3季連続準優勝も果たし、4本塁打も放った。聖地に見初められた男の挑戦が始まる。(12年11月21日付掲載、おわり)

 ◆北條 史也(ほうじょう・ふみや)1994(平6)7月29日、堺市出身。3歳から「美木多キングス」でソフトボールを始め、美木多小4年から「浜寺ボーイズ」に入団。美木多中時代は「オール狭山ボーイズ」で3年から本格的に遊撃手。光星学院(青森)では1年秋に「3番・遊撃」のポジションを獲得。田村(ロッテ3位)とともに中心選手として活躍し、2年夏から3季連続甲子園準優勝に輝いた。高校通算25本塁打。1メートル77、75キロ。血液型O。右投げ右打ち。

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2020年4月14日のニュース