【内田雅也の追球】「経験」として受けいれる――阪神・矢野監督の愛読書から「運」を考える

[ 2020年4月1日 08:00 ]

YouTubeのタイガース公式チャンネルで愛読書『運転者』を紹介する阪神・矢野監督

 阪神監督・矢野燿大にはスポニチ本紙の新春対談で「話してみたい」という作家がいたそうだ。矢野がその名を口に出すことはなく、対談はこちらが仕向けたプロ棋士・藤井聡太と行い、大成功だった。元日付1面(大阪本社発行版)を飾っている。

 2月下旬のある日、沖縄でその作家は誰だろう?という話になった。少し考え、喜多川泰ではないかと思い当たった。

 これまで読んだ『書斎の鍵』や『One World』など、人生の教訓や人間的教育が詰まった――しかも、必ず前を向ける――ストーリーが矢野の目指す野球に通じていると思ったからだ。それに当欄で幾度も書いてきたが、野球は人生に似ている。監督付広報に確認してみると「ナイショですけど……そうです」。当たりだった。

 新型コロナウイルス禍での開幕延期を受け、矢野は先ごろ、YouTubeの球団公式チャンネルで「大変な時ですが、本を読める時間はあるのかなと思いまして」と、愛読書を紹介した。

 このなかで喜多川の小説『運転者』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)をあげていた。「運についての説明が分かりやすく、面白く、感動を呼ぶ内容となっています」「前に進んでいける本です」

 「なんで俺ばっかり、こんな目にあうんだよ」と不運を嘆く保険外交員の主人公が不思議なタクシーの運転手との出会いを機に、幸運を手にしていく。オビには「報われない努力はない」とあった。

 運転手のことを主人公は「運転者」と呼ぶ。運を転がしてくれる人という意味だ。

 こうした考え方は古くからある。現役時代「打撃の神様」と呼ばれ、監督として巨人V9に導いた川上哲治が<運とは自分で運ぶもの。真剣にやれば幸運を呼ぶ>と著書『遺言』(文春文庫)に記している。禅に親しむ川上はたとえに道元の『正法眼蔵随聞記』の「切に思わば必ず得べし」とあげている。

 また、広島の好打者で広島、近鉄や南海でも打撃コーチを務めた山本一義は著書『一球談義』(淡水社)で中国新聞社に勤めた父親から聞かされた言葉を書いている。「“運”は運ぶという意味だ。あらゆることに辛抱し、頑張って自分の人生を積極的に運んでいけば、必ず“運”は開ける」

 「運転者」の言葉もまた、警句に満ちている。「運は“いい”“悪い”でなく“使う”“貯(た)める”で表現するものなんです」

 「人生にとって何がプラスで何がマイナスかなんて、それが起こっている時には誰にも分かりませんよ。どんなことが起こっても、起こったことを自分の人生において必要だった大切な経験にしていくこと、それが“生きる”ってことです」それが本当のプラス思考なんだという。

 以前に書いたが、英語のエンジョイ(enjoy)もいいことも悪いことも受けいれる、享受するというのが原義らしい。

 「運転者」の言葉は確かに、教訓的なのだが、今のこの深刻な情勢を「大切な経験」と思えるほど、心に余裕はない。外出制限や自粛で、重苦しく、息をひそめる日々が続いている。

 そんな現状をアメリカの政治学者でコンサルティング会社ユーラシアグループ社長のイアン・ブレマーがロイター通信のインタビューで「今は人生で何が大切かを見返す時だ」と語っていた。
 矢野の言うように読書に親しむ時間はある。静かに自分と向き合いたい。時間はかかるだろうが、今を大切な経験としてプラス思考で受けいれ、生きていきたい。=敬称略=(編集委員)

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