【球春ヒストリー(13)】1987年・PL学園 全員が一つになった3度目の優勝

[ 2020年4月1日 06:30 ]

1987年、選抜で優勝し、歓喜の輪に駆け寄る立浪(6)を迎える片岡(左上)らPL学園ナイン
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 謙虚に、ひた向きに――。そして全員が一つになって戦った。1987年の第59回大会でPL学園は3度目の優勝を飾ったが、下馬評は決して高くなかった。20打数7安打3打点の活躍を見せた片岡篤史氏(本紙評論家)が当時を回想する。

 「とにかく一つ、校歌を歌いたかった。それだけだった。後に(当時のメンバーで)4人プロへ行ったというのはあるけれど、目標は全国制覇とかではなく一つ一つ勝っていくことだった。誰ひとり慢心はなかった。謙虚さ、ひたむきさがあったと思う」

 清原和博、桑田真澄ら2学年上の世代は夏の甲子園大会を制するなど史上最強とも言われたが、1学年上は選抜で初戦敗退し夏は大阪大会準決勝で敗れ、甲子園出場を逃した。当時も前年秋の大阪大会3位で近畿大会ベスト4での選抜出場だったが、聖地で力を発揮できた強さの源には厳しい日常生活の中で育まれた連帯感があった。

 「寮生活で生まれた、助け合う心で一つになれた。見栄えはよくなかったけど、高校生らしい戦いができた」

 難敵相手に接戦の連続だった。1回戦で好左腕の石貫宏臣(元広島)がいた西日本短大付を破ると、準々決勝では芝草宇宙(元日本ハム)の帝京に延長11回サヨナラ勝ち。東海大甲府との準決勝は5回終了時点で1―5。それでも動じなかったのは「粘って粘って、粘り抜く」という強靱(きょうじん)な精神力と一つの経験則があったからだった。

 86年11月8日に行われた近畿大会準々決勝・大商大堺戦。大阪大会準決勝で5安打零敗した相手に、またも苦戦を強いられ5回表を終えた時点で1―5と4点差を付けられた。負ければ選抜出場が絶望的となる一戦。選手を奮起させたのは中村順司監督(当時)の「今日は南の月命日だ。そんな顔してたら南が泣くぞ」の言葉だった。

 同年6月8日に、同期で中軸として将来を嘱望されていた南雄介さんが急死。主将だった立浪和義はズボンのポケットに写真をしのばせ、片岡氏はベンチに遺影を立てかけていた。仲間のためにも――。思いが一つとなり8―5で逆転勝ちした。

 同じような展開となった東海大甲府戦。6回に片岡氏の左翼線への2点二塁打など5安打集中して4点を奪い同点。2試合連続で延長に入ったが14回に3得点し決着をつけた。「一緒に戦い、背中を押してくれたと思う」。片岡氏の言葉に同期17人の思いが凝縮されていた。

 甲子園大会で春夏合わせ7度の優勝を誇るなど一時代を築いた母校は、16年夏の大阪大会を最後に休部状態が続く。「これからOBで力を合わせたい」。OBだけではない。甲子園が、いや、全国の高校野球ファンが「永遠の学園」の復活を待っている。=おわり=

 ○…87年春の関東第一との決勝では相手のミスを逃さなかった。初回2死から立浪がストレートの四球で出塁。続く深瀬猛は飛球を打ち上げたが相手バッテリーが譲り合う形で取れずファウルとなり、直後の8球目を中堅左に運ぶ適時二塁打で先制点を奪うなど2点を先取した。7、8回に計5点を奪う7―1の完勝劇で、バックも無失策で投手陣を盛り立てた。片岡氏は「相手のミスにつけ込む。こちらはミスをしない。それがPLの野球」とうなずいた。

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