吉沢“父子”アベック弾!日大三14点発進!!

[ 2010年3月22日 06:00 ]

<日大三・山形中央>8回無死一塁、日大三・吉沢は左越え2ランを放つ

 【センバツ第1日 日大三14-4山形中央】リニューアル工事を終えて芝が張り替えられた甲子園球場で球児の春が開幕。1回戦3試合が行われ、8年ぶり17度目の出場となった日大三(東京)は先発全員の19安打14得点の猛攻で、21世紀枠で初出場の山形中央を下した。吉沢翔吾遊撃手(3年)は8回に左越え2ランを放ち、71年の父・俊幸さん(55)に続く親子2代での“アベック弾”を達成。9年ぶりに春の初戦を突破し、39年ぶり2度目の優勝に向け好発進した。

 39年前の父に続き、息子も甲子園の空にアーチを描いた。7点リードで迎えた8回無死一塁。内角低めのカーブを拾った吉沢の打球は、三塁側アルプススタンドに座る父・俊幸さんのすぐ近く、左翼ポール際に吸い込まれた。
 「本塁打を打ちたかったので最高です。打った瞬間は切れると思いましたけど、切れないでくれ、と思ってました。直球にヤマを張っていたが、変化球に体がついていった」
 初回に2点を先制される展開に、小倉監督も「ちょっと嫌な雰囲気がした」と振り返ったが、吉沢は「(点を)取れる自信があったので焦りとかはありませんでした」。その言葉通り、2回の第1打席に続き、2点リードを追いつかれた直後の5回にも左翼線へ勝ち越しの2点二塁打を放つなど3安打5打点の大活躍だった。
 目標は常に父だった。父・俊幸さんは日大三2年時に遊撃手として出場した71年センバツで優勝。翌72年の春は準優勝と輝かしい球歴を持つ。その後、早大から阪急へ進みプロ野球選手として活躍した父は、小さい頃からあこがれの存在だった。父の後を追うように日大三に進み、昨夏には2年生で甲子園に出場。しかし、2回戦で東北(宮城)に敗れた。
 優勝、そしてもう一つ父にあって自分にないものが本塁打。父は71年春の準決勝・坂出商戦で本塁打を放っている。「いつかは追い抜かないといけない存在」。その父が見守る中での一発。俊幸さんも「甲子園大会で親子でホームランを打った人はいないと聞いているので、うれしい」と興奮を隠せなかった。
 終わってみれば、チームも19安打14得点の猛攻。圧倒的な猛打で優勝した01年夏も1回戦は初日の第3試合だった。親子アーチを実現させた吉沢を筆頭に日大三伝統の強力打線は健在。吉沢父が優勝した71年以来、39年ぶりの紫紺の優勝旗を狙う。

 ◆吉沢 俊幸(よしざわ・としゆき)1954年(昭29)7月23日、埼玉県生まれの55歳。日大三から早大へ進み、2年春に5本塁打でベストナイン。76年ドラフト3位で外野手として阪急入団。85年に南海に移籍し、86年現役引退。通算成績は740試合で打率・198、17本塁打、51打点、55盗塁。87年から90年まで阪急(現オリックス)、91年には阪神でコーチを務めた。

 <東京勢センバツ通算110勝>この日の日大三の勝利で東京勢はセンバツ通算110勝となった。都道県別では大阪、兵庫、愛知に続く第4位。勝利数の内訳は早実が21勝、日大三が20勝で帝京が19勝。この3校で60勝となり、東京勢の5割以上の勝ち星を挙げている。

 <エースの父も元プロ野球選手>エースで5番の山崎も父が元プロ野球選手。父・章弘さん(48)は79年のドラフト2位で巨人に入団。91年に引退後は、日本ハム、中日でコーチを歴任し、現在は関西独立リーグの神戸でコーチを務めている。この日は所用で観戦できなかったが、山崎自身は2年前の3月21日に脳腫瘍(しゅよう)を手術。生死をさまようほどの大病を克服した。前夜のミーティングでは小倉監督から「こういう日に投げられるなんて神様がしてくれたこと。怖いものなしでいけ」と激励された。運命的とも言える日に完投し「序盤は力んで制球が甘くなったが、最高に幸せ」と喜びをかみしめた。

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2010年3月22日のニュース