池永正明さん76歳で死去 5年余りで103勝も「黒い霧事件」で永久失格処分 元西鉄波乱の天才投手

[ 2022年9月27日 05:30 ]

西鉄のエースとして活躍した池永正明さん
Photo By スポニチ

 西鉄(現西武)で投手として活躍した池永正明(いけなが・まさあき)氏が、がんのため25日夕方に福岡市内の病院で死去していたことが26日、分かった。76歳だった。山口県豊浦郡(現下関市)出身。通夜・告別式は家族葬で営まれる。池永氏は高卒1年目に20勝を挙げて新人王に輝いた伝説のエース。70年に八百長にまつわる「黒い霧事件」で永久失格処分となり、05年に処分を解除された。

 波乱の人生を歩んだ伝説のエースが、静かに天国に旅立った。池永氏は長くがんによる闘病生活を続け、複数回の胃がんの手術を受けていたという。肝臓にも転移し、25日夕方に76年の生涯を閉じた。西鉄ライオンズOB会の竹之内雅史会長(77=羽衣国際大野球部総監督)は「昨年12月のOB会で楽しく語り合ったばかり。その時は体調が悪いと聞いていなかったので驚いた」とショックを隠せない様子だった。

 池永氏は若き天才投手だった。下関商では3度甲子園に出場して2年春の選抜で優勝、夏に準優勝。巨人、南海との争奪戦の末に65年に西鉄に入団した。高卒1年目に20勝を挙げて新人王。5年目までに計99勝を挙げた。シュートを武器に抜群の身体能力、クレバーな投球術を駆使して活躍したが、栄光は突如として失われた。

 入団5年目の69年オフ、プロ野球界に激震が走った「黒い霧事件」。池永氏は先輩選手から100万円を預かったことは認めたが、八百長への関与は一貫して否定。しかし70年5月に永久失格処分を受け、長く表舞台から姿を消すことになった。

 「もう許していただきたい」――。切実な思いを公の場で口にしたのは01年12月25日。プロ野球OBによるマスターズ・リーグの福岡の先発として登板し、31年ぶりにユニホーム姿をファンに披露した時だった。球界内に復権へ向けた声が上がり、そして永久失格から35年後の05年3月。処分解除が可能になるよう野球協約が改正され、同4月に復権が認められた。池永氏は「うれしい。プロ野球界に恩返しをしたい」と喜びのコメント。復権後は社会人クラブチームで監督を務めるなどした。

 西鉄同期入団にはプロゴルファーの尾崎将司(当時の登録名は正司)がいる。徳島・海南で活躍した尾崎は、池永氏の投手としての力を見せつけられて野球を断念。プロゴルファーに転身したのは有名なエピソードだ。ジャンボ尾崎は池永氏の訃報を聞き「ショックすぎてコメントできない…」と漏らした。池永氏の復権運動にも長年、力を注いできただけに「戦友」の死に言葉を失っていた。

 ▽黒い霧事件 選手が金銭の授受を伴う八百長に関与したとされる疑惑、事件。69~71年に発覚した。暴力団の絡んだ不祥事に国会でも追及の声が上がり、野球協約の「敗退行為」に該当するとして、西鉄選手ら計6人が永久失格処分を受けるなどした。一部の選手はオートレースの八百長事件にも関与していた。池永氏は05年、処分に関する野球協約の改正を受け、球界復帰を果たした。

 ≪永久失格で投手力大幅ダウン≫67年の西鉄は23勝で最多勝の池永を筆頭にリーグトップの防御率2.50の投手陣が奮闘。序盤は阪急との首位争いを繰り広げたが、パ最低の打率.222に終わった貧打が響き、一時は5位まで転落。最終的には2位まで浮上も首位・阪急とは9ゲームもの差がついた。なお、この年、勝ち頭の池永とこれに次ぐ13勝の与田順欣が70年に黒い霧事件で永久失格。投手陣の戦力ダウンが70~72年の3年連続最下位の要因になった。

 ◆池永 正明(いけなが・まさあき)1946年(昭21)8月18日生まれ、山口県出身。下関商では2年春から3季連続で甲子園に出場し2年選抜で優勝、夏は準V。西鉄(現西武)では1年目の65年に20勝で新人王、67年には23勝で最多勝に輝くなど活躍し、球宴にも1年目から5年連続で出場した。70年5月に永久失格処分を受けて退団後は福岡の中洲でバー「ドーベル」を経営。現役時は1メートル75、77キロ、右投げ右打ち。

続きを表示

2022年9月27日のニュース