追悼連載~「コービー激動の41年」その1 なぜ彼はこの世に生まれてきたのか?

[ 2020年2月17日 14:01 ]

球宴前のセレモニーでブライアント氏とジアナさんの映像の前で熱唱するジェニファー・ハドソン(AP)
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 【高柳昌弥のスポーツ・イン・USA】NBA元レイカーズのコービー・ブライアント氏がヘリコプターの墜落事故で亡くなってから3週間が過ぎた。享年41。バスケの選手だった13歳の次女ジアナさんの死も悲しみを増幅させた。16日にはシカゴでオールスターゲームが行われたが、全選手がブライアント氏が現役時代後半につけていた背番号24と、ジアナさんが所属のユースチームでつけていた背番号2のユニフォームを着用。球宴で4回MVPとなったかつてのスーパースターを目に見える形で追悼していた。

 NBAの各試合では試合開始直後、ブライアント氏が現役時代につけていた2つの背番号にちなんでバックコートとショットクロックの両バイオレーション(8秒と24秒)を故意に犯して追悼したが、バスケットボールの時間にまつわる「規則違反」はこれ以外にペイント内での3秒だけ。まさかこのためにその2つの番号を選んだわけではないはずだが、熱意と愛情を注ぎ続けたバスケットボールとの“距離”のあまりの近さに運命的なものを感じざるをえなかった。

 世界を熱狂させることになる“物語”は1978年8月23日に彼がペンシルベニア州フィラデルフィアで生まれる前からスタート。彼がこの世に生を受けたのは、父ジョー・ブライアント(現在65歳)がいたからこそだった。NBA元76ersの選手であり、日本のプロチームでも監督を務めた人物。米国内にある日本食のレストランのメニューで見つけた神戸牛の「KOBE」に「この文字の音感がとてもいい」として、息子の名前にしてしまった話はあまりにも有名だ。(コーベと発音すると知っていたらやめたかもしれないが…)。

 コービーのバスケットボール人生のルーツもジョーの人生の中にある。だからまず父の青春時代をのぞいてみよう。起点は1972年。フィラデルフィアのジョン・バートラム高校に通っていたときだった。このときジョーはすでにバスケットボールの州内ではスター選手で、最上位リーグで優勝も経験していた。メリーランド大やノートルダム大からスカウトされており、全米でも一目置かれていた高校生だった。だが彼は中規模で地元のラサール大に進学する。理由は「友だちや家族と離れたくなかったから」。NBAファンの方でなくても「なに、それ?」と子どもじみた理由にあきれるかもしれない。ただしコービー誕生の発端は、こんなにもあどけない部分に潜んでいる。

 ジョーが一番意識していたのはパム・コックスという女の子だった。祖父母同士が近所だったこともあって子どものころからジョーはパムとは知り合いで、思春期を迎えるとそれは初恋の相手に変わっていった。「いつかパムと結婚するんだ」。しかし仲間にそう言いふらしたものの、声さえかけられない。そうこうしているうちに大学進学の年を迎えていた。メリーランド大やノートルダム大に行くとその大事な相手に会えなくなる。だからラサールに決めた。そしてこの選択は、すぐにジョーの人生を変えていく。

 入学してまもなく、ペンシルベニア大のホームコート(フィラデルフィア郊外のパレストラ)で行われたのがビラノバ大とのゲーム。その対戦チームの一員にはパムの兄、ジョン・コックスがいた。妹は応援のために会場に駆けつけ、そこに旧知の顔を発見する。偶然の再会。ジョーはチャンスを逃がさなかった。「僕のチームのベンチの後ろのスタンドに彼女の両親がいて、ビラノバ大のベンチの後ろに僕の両親がいた。そしてパムが僕の両親にあいさつしているのが見えたんだ。だから僕は彼女の両親にあいさつし、そのあと通路で鉢合わせ。それが最初のデートだったね。会話は“元気?”だけ。でも楽しかったよ」。奥手だった少年に巡ってきた記念すべき彼女とのワン・オン・ワン。パムはフィラデルフィアにキャンパスがあるクラリオン大の学生だったが、ジョーの巧みな速攻に翻ろうされ?2人は7カ月後にスピード結婚してしまった。かくして“新ブライアント家”が誕生したのである。(続く)

 ◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、北九州市出身。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。NFLスーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会には一昨年まで8年連続で出場。フルマラソンの自己ベストは2013年東京マラソンの4時間16分。昨年の北九州マラソンは4時間47分で完走。

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