追悼連載~「コービー激動の41年」その2 父ジョーのプロ入りは“できちゃった婚”が理由

[ 2020年2月18日 09:16 ]

バスケットボール殿堂の最終候補に選ばれた故コービー・ブライアント氏(AP)
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 【高柳昌弥のスポーツ・イン・USA】1975年の春。故コービー・ブライアント氏の父ジョーはラサール大(フィラデルフィア)の3年生だった。そしてプロ入りを決意する。当時のNBAにはアンダークラスメン制度(1~3年生のドラフト指名)がない。NBAに入るためには経済的に困窮していることを証明しなくてはならなかった。ところがジョーにとってこれは「壁」ではなかった。なぜならこのときすでに長女シャリアが生まれていたからだ。

 ミルク代が必要。プロにならないと家計を支えることはできなかった。問題は206センチで91キロとスリムなフォワードを獲得しようとしたチームが思ったほど多くはなかったこと。それでもウォリアーズが1巡目(全体14番目)で指名した。トップでホークスに指名されたのは「バックボードのてっぺんにコインを置いてくるハイリーパー(ジャンプ力にすぐれた選手の意味)」と言われていたノースカロライナ州立大のデビッド・トンプソン。しかし彼は当時NBAの対抗組織だったABAのドラフトでナゲッツからも1巡目で指名されており(ABAのNBA吸収合併は1976年)、契約金をはかりにかけた結果、ナゲッツを選択した。

 ジョーはABAからは指名されていない。だからウォリアーズに「もっと金額は上がらないでしょうか?」と食い下がった。なにせすでに子持ちの身。金銭闘争は大切だ。だがウォリアーズ側は困惑。結局、交渉を打ち切ってジョーの交渉権を76ersに譲渡した。

 76ersはこの年のドラフトで全体5番目にフォワードのダリル・ドーキンスを指名。高卒選手だったことが幸いして、資金的にはまだ余力があった。ジョーに提示したのは5年、100万ドルという破格の金額。1975年の円最安値は1ドル=306円だったので(今の若い人には信じてもらえないかもしれないが…)日本円で3億600万円というとてつもなく高価なミルク代になってしまった。平均年俸は20万ドル。このシーズンのNBA平均年俸は10万7000ドルだったから、まだ1本もシュートを決めていない新人が先輩の2倍の給料をもらうことになったのである。しかも「地元企業」への就職だ。「家族の近くにいたい」という希望はまたしてもかなえられた。

 ではジョーは即戦力になったかというと、そうではなかった。本人の意思とチームの思惑にはかなりのギャップがあった。ジョーはドリブルとシュートが得意だったが、大柄なサイズゆえに76ersが期待したのはリバウンド。1982年シーズンにロケッツで監督と選手という間柄だったデル・ハリス(コービーの新人時代ではレイカーズの監督)が「マジック・ジョンソンよりもパスのスキルはあった」と語っているくらいだからその通りだったのだろう。

 だがその本領を発揮する場を与えてもらえず、NBA初先発を果たしたのはクリッパーズ時代(当時の本拠地はサンディエゴ)の1981年になってから。この間、NBAの中ではあまりいい評判は聞かれなかった。レイカーズの元看板スターでNBAのロゴマークのモデルとされているジェリー・ウエスト氏(81)はこう述懐している。「ジョーはプレーをしたいんじゃない。目立ちたいだけなんだ」。シルクのシャツにベレー帽をかぶり、ヒールの高い靴を履いてディスコ通いをすれば、インタビューの際には葉巻をくわえる始末。テレビ・カメラが回り始めると「エアギター」を弾きながら質問に答えるありさまだった。甘いものには目がなく、ファンからもらった「ジェリービーン」が大好きだったのでそれがそのままニックネームになった。

 コービーは練習熱心で妥協を許さず、遊ぶこともあまりしなかったストイックな選手として知られているが、父ジョーはその対極にいた。「コービーのミドルネームは「ビーン」。「ジェリー」は外れたが、現役時代の光景は親子ながら似ても似つかぬものだった。(続く)

 ◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、北九州市出身。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。NFLスーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会には一昨年まで8年連続で出場。フルマラソンの自己ベストは2013年東京マラソンの4時間16分。昨年の北九州マラソンは4時間47分で完走。

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