【内田雅也が書く 野球ができる喜び――コロナ禍の戦後75年(中)】特攻に散った野球人、最後の手紙

[ 2020年8月4日 07:00 ]

大阪護国神社に建つ「粟井俊夫之碑」に手を差しのべる粟井一夫さん
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 大阪・住之江にある大阪護国神社の一角に飛行服に身をまとった立像がある。「海軍大尉 粟井俊夫之碑」

 神風特攻隊員として1945(昭和20)年4月16日、菊水三号作戦に参加、鹿児島・鹿屋から沖縄に向けて出撃し、喜界島南東50カイリ(約93キロ)の海で散華した。24歳だった。

 69年5月建立。俊夫の父で元大阪市会議員、粟井岩吉(いわきち=故人)が建てた。37年初当選から87年まで、市議としては全国最長の12期50年間在職し、議長を2度務めた。

 51年、大阪市遺族厚生連盟(現・大阪市遺族会)を結成し、94歳で他界する92年まで会長を務めた。大阪府出身、縁故の英霊を追悼する大阪護国神社とは関係が深かった。

 俊夫は阪神電鉄執行役員、粟井一夫(56)の伯父にあたる。
 父・賢文(たかふみ=87)の兄だ。父は8人きょうだいの四男で、俊夫は次男だった。一夫は父から「兄弟で一番野球が上手だった」と聞いていた。

 大阪・天王寺商時代は捕手。時に投手も務めた。37年には夏の大阪予選で準決勝まで進出している。

 39年春、立教大に進み、野球部に入った。同期に戦後、阪急、西鉄で活躍した永利勇吉(62年、41歳で他界)、1級上に阪急、近鉄などで監督を務める西本幸雄(2011年、91歳で他界)がいた。
 西本の遺品に42年、宝塚遠征時の写真があり、西本、粟井ら4人が笑顔で写っている。

 だが、東京六大学は同年秋のリーグ戦が戦前最後となった。その後の明治神宮大会で優勝、日本一となった。戦局は悪化し43年4月、文部省の統制令「戦時学徒体育訓練実施要綱」を受け、連盟は解散となった。

 43年9月、学生に対する徴兵令猶予停止(学徒出陣)で主将・西本らは繰り上げ卒業。最上級生として主務に就いた粟井も22歳と年齢に達していた。徴兵検査を受け、12月10日、海軍に入隊した。

 資料によると、海軍・海兵団で試験の上、第14期飛行予備学生として44年2月、土浦海軍航空隊に入隊した。さらに鹿児島・出水(いずみ)、茨城・筑波で飛行訓練を受けている。

 14期飛行予備学生の手記をまとめた『学徒特攻 その生と死』(国書刊行会)に俊夫と同じ隊員だった柳井和臣の『筑波隊の記録』がある。出水では教官対学生の軟式野球試合があり、学生はプロ野球名古屋軍投手・石丸進一(佐賀商)や早大・近藤清(岐阜商)、法大・本田耕一(日大三中)、立大・奥田元(嘉義農林)らがいて圧勝した。俊夫も出場したかもしれない。

 44年秋、俊夫は一時、大阪の実家に帰っている。生後間もない姪(長男・義一の長女)を抱いたそうだ。その致佳子(75)は「母から聞いています。わたしをひざに抱き、黙ってお酒を飲んでいたそうです」と話す。これが両親やきょうだいら、肉親との最後の面会だったろうか。

 45年2月10日、筑波隊に神風特別攻撃隊(特攻隊)編成の命が下った。120人から50人が選抜された。先の手記に<志望者のみだったが、全員志望に近く>とある。俊夫も志願し選ばれたわけだ。「神風舎」という特別な宿舎に入った。

 4月に入ると、筑波隊は第一、第二……と順に前線基地の鹿屋に移動した。俊夫は第三筑波隊だった。宿舎は野里国民学校で、風呂はドラム缶だった。

 このころ、俊夫が弟の賢文に宛てた手紙が残っている。俊夫の遺品や写真はほとんど空襲で焼失してしまったが「この手紙だけは父が大切に保管していた」と一夫は言う。

 発信は4月4日。筑波からか、鹿屋に移ってからか。消印は読み取れない。いずれにしても出撃間際である。

 当時12歳、高津中(現高津高)に入学したばかりの弟に<賢文君>、さらに<賢坊(ぼ)ん>と普段通り呼びかけている。「ぼん」は大阪言葉で名前の下に付ける愛称だ。商人がよく使った。粟井岩吉は17(大正6)年に興した特殊鋼の商社、粟井鋼(はがね)商店(現粟井鋼商事)を営んでいた。

 3月13日深夜から14日未明にかけての大阪大空襲での避難と無事を喜び、ねぎらった上で<賢坊んは大きくなったら何になります>と問いかけ<兄さんは科学者かお醫者(いしゃ)様になって欲しい>と望んでいる。<科学者になって立派な飛行機を造って欲しいですね>

 自身は零戦に乗る特攻隊員として、近く敵艦目がけて体当たりする。明日は知れない身として、弟に将来の希望を託している。

 <兄さんは賢坊ん等が焼き出された、あの憎い米英を一氣に撃滅せんと一生懸命猛訓練に励んで居ります故、安心して下さい>

 手紙に<表現の自由はなかった>と海軍飛行予備学生第14期会編『あヽ同期の桜 かえらざる青春の手記』(光人社)のまえがきにある。<わずかに検閲の目をのがれて、秘(ひそ)かに遺家族にとどけられた>。出撃前の兄は特攻とは書いていない。

 <では今日は此れ位にして又お便りします さようなら>と結んでいるが、もう次の手紙は届かなかった。

 俊夫ら第三筑波隊は沖縄戦の菊水三号作戦に参加。4月16日早朝、鹿屋を飛び立った。同隊5機とも帰還しなかった。

 戦後、賢文は高津高2年の49年夏、同校初の甲子園大会出場を果たした。神戸大に進み、関西六大学リーグ(当時)で首位打者にもなった。銀行員となり、大阪産業信用金庫理事長、八光信用金庫会長を歴任した。

 岩吉は野球好きだった。春夏の甲子園大会では全日程通用の「通し券」を買い、孫の一夫はよく連れられた。食堂でカレーを、観客席でアイスクリームを食べた記憶が残る。

 一夫は阪神電鉄に就職。09年4月には第26代の甲子園球場長に就任し13年3月まで務めた。11年、東日本大震災後の選抜で創志学園主将・野山慎介が行った選手宣誓が胸に響いた。「がんばろう! 日本。生かされている命に感謝し、全身全霊で正々堂々とプレーすることを誓います」

 今は本社スポーツ・エンタテインメント(SE)事業本部副本部長。タイガースや甲子園球場、六甲山などの本社担当役員だ。チームが甲子園でナイターの際は球団社長・揚塩健治、本部長・谷本修らと本部席に詰める。

 今季は新型コロナウイルスの感染拡大で開幕が3カ月延び、無観客や観客数が制限されたなかでの開催だ。

 「野球ができる平和と日常の幸せ、ありがたさを強く思います。こうして甲子園で仕事をしているのも運命かもしれません」

 特攻で亡くなった、野球人だった伯父を思う。蝉時雨のなか、碑の前に立ち、手を差しのべた。=敬称略=(編集委員)


 ≪特攻隊員にプロ野球選手も≫粟井俊夫と同じ海軍第14期飛行予備学生、筑波航空隊にはプロ野球・名古屋軍(現中日)の投手・石丸進一もいた。佐賀商から41年入団。42年17勝、43年はノーヒットノーランを含む20勝をあげた。

 徴兵猶予のため日大夜間部にも籍を置いていたが学徒出陣で入隊。特攻隊員となった。

 第五筑波隊で45年5月14日、鹿屋から出撃。出発前、親友の本田耕一(法大)と最後のキャッチボールを行った。従弟・牛島秀彦の『消えた春』(河出文庫)に詳しい。同書を原作に映画『人間の翼』にもなった。

 石丸は神風特攻隊員唯一のプロ野球選手。他に陸軍特攻隊で戦死した朝日軍の渡辺静がいる。=敬称略=

 ◆特別攻撃隊(特攻隊) 爆弾を装着した航空機や潜水艇などで敵に体当たりするため編成された部隊。太平洋戦争末期の1944(昭和19)年10月、フィリピン・レイテ沖海戦で海軍の「神風特攻隊」が初めて出撃した。人間魚雷「回天」、ボートに爆弾を積んだ「震洋」、爆弾を積み滑空して体当たりする「桜花」なども投入された。特攻隊戦没者慰霊顕彰会によると特攻による戦死者は6418人。

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