阪神・横田の母まなみさん「生きてさえいてくれれば」と思ったけど――揺るがなかった慎太郎の決意

[ 2019年9月27日 08:10 ]

引退セレモニーで母親のまなみさん(手前左)から花束を受け取る横田(撮影・坂田 高浩)
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 26日のウエスタン・リーグ、ソフトバンク戦で引退試合を行った阪神・横田の母まなみさんがスポニチに手記を寄せた。

 慎太郎、6年間の現役生活、本当にお疲れさま。つらく、大変だったと思うけど一切、弱音を吐かずに戦ってきた経験は、必ず次の人生に生きると思うよ。家族として夢を見させてくれてありがとう。

 17年の2月、仕事中に慎太郎から電話がかかってきて“体調が悪いから病院に行ったら脳腫瘍だった”って聞いて…。最初は意味が分からなくて、もう一回聞き直したら“脳腫瘍だって。お母さん、大丈夫?”って私を心配してくれてね。その場で仕事を辞めた。

 入院してからは、主治医の先生、お父さんと3人で何十回も話し合いを重ねた。手術の直前、お父さんとは“もう野球はいらないよね?生きてくれればいいよね”と確認し合って。でも慎太郎が当日、先生に“神経1本傷つけないでください”と言って手術室に1人で歩いて入っていったのを見て、本当に野球がやりたいんだって。その言葉を聞いて、野球ができる体にしてほしいと強く願った。

 計2回、2度目は18時間に及ぶ大手術が終わって、最初は全く目が見えなくて。口も大きく開けることができないから、食事は子どもに食べさせるように、ご飯をラップに小さく2センチぐらいに包んで食べさせてあげた。無意識に手術の傷口を手で触れば、菌が入って、また手術をやり直さないといけない。先生には“お母さん絶対に寝ないでくださいよ”と言われててね。慎太郎と私の手に、小さな鈴を付けて分かるようにしていた。

 私が屋上に連れて行って夜景も見たよね。4月で、万博の方は夜桜がきれいで。慎太郎には“絶対に見えるようになるからね。桜が散るまでには絶対に見えるようになる”と声をかけて信じていた。

 目も見えるようになって、回復は本当に早かった。抗がん剤、放射線治療でも大きなトラブルが一度もなかった。普通は嘔吐(おうと)もするみたいだけど“大丈夫です”と一度も吐かなかった。髪の毛も全部抜けたんだけど生えるまでも早かった。カツラの予約もしたんだけど全く必要なかった。先生も“こんな人はいない”と驚いてたぐらいだから。

 治療が終わって、体を動かせるようになってからは毎日、お重にお弁当を作って朝6時に慎太郎と病院の1階で待ち合わせして。そこから1時間、病院の大きな庭園でキャッチボール。2人で汗だくになって病室に帰ってくると毎回、看護師さんが苦笑いを浮かべていた。慎太郎は6時より前に1階に降りて壁にボールを当てて練習していたよね。実は警備の方に“大きな音を立てられると困るけど私は知らないふりをしてます”と話をされたことがあった。午後からは日に当たって、良い空気を吸う時間を大切にして、看護師さんに“日サロに行ってきます”と言ってたね。

 退院してからは、近くのアパートで1カ月間、2人で生活した。朝早く起きて散歩して、神社で手を合わせて。公園でキャッチボールをして、軽く走って、バドミントンをして、すべての時間が幸せだった。本当に、入院してから1度も落ち込んだことはなかった。慎太郎が前向きだったから病室はいつも明るくて、一日中笑ってた記憶が今もあるから。

 でも、一度だけ泣いたことがあった。退院前日“お母さんは今日は早く帰って部屋の掃除もして明日迎えにくるから”と言って振り返ると、慎太郎は泣いて、泣いて…。良い日が来たねって。今日は一晩中、泣いてなさいと言って病室を出た。

 病気が分かって、鹿児島に帰って治療することも可能だったけど、甲子園から離れたところっていうのが気になって、関西に残って闘病することを決めた。入院中はチームメートの方もたくさん来ていただいて。慎太郎から“松田さん(松田遼馬)が消灯するまで帰らない”と電話があったり。高山さんが、ドッグフードを差し入れしてくれた時は家族で大爆笑。北條さんも甘い物をいっぱい持ってきてくれて。本当に阪神タイガース球団、関係者の方々に多大なサポートをいただいて、慎太郎、家族ともども感謝しかありません。

 最後に、6年という期間だったけど1軍の試合にも出させていただいて慎太郎も自分の子供ができた時に現役生活のことを話せるんじゃないかな。引退試合という形で試合にも出させていただいて、私たち家族はしっかりと目に焼き付けました。本当にお疲れさま。

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2019年9月27日のニュース