「湾生」球児の“遠泳”人生

[ 2018年6月6日 11:00 ]

1941年9月、台湾全島選抜大会で優勝した花蓮港中の選手たち。前列左から3人目が岩本さん(岩本力さん提供)
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 【内田雅也の広角追球〜高校野球100回大会余話】大阪市港区の岩本力(つとむ)さんは日本統治下の台湾で生まれ育った、いわゆる「湾生」(わんせい)である。1926(大正15)年、台湾東部の花蓮港(かれんこう)市(現・花蓮市)生まれ。今年5月で92歳になった。

 花蓮港中(通称・花中=かちゅう)時代は野球部員だった。戦前の春夏の甲子園大会は、日本統治下の台湾、満州、朝鮮の外地からも代表校が出場していた。

 岩本さんは今もあの夏の日を忘れない。1941(昭和16)年7月24日だった。台北帝大球場で全国中等学校優勝野球大会(今の全国高校野球選手権大会)の台湾予選、全島中等学校野球大会が開幕した。

 兵庫県警の西脇良朋氏が自費出版した労作『台湾中等学校野球史』によれば、開会式で台北一中の田中正司主将が「日本武士道精神により終止真摯敢闘し」「興亜大業を翼賛すべき皇国民として」……と宣誓している。

 前回まで書いてきたように、文部省は7月13日、全国大会中止の通達を出していた。ただ、地方大会(予選)をどうするかは各地区に任されていた。たとえば、和歌山県は開幕前に中止、兵庫県は2回戦途中で取りやめた。台湾では最後まで行われたのである。

 3年生の岩本さんは外野手の控えだった。大会初日、台中商に1―3で敗れた。同日夕、台北市内の定宿、一丸旅館に戻ると、5年生の岩森静一投手から「今から大下が来る。おまえも一緒にいろ」と命じられた。

 戦後、明大からプロ野球に進み「青バット」でホームランを連発する大下弘である。高雄商の主将、投手、3番打者だった。同じ大会初日、嘉義農林に敗れていた。

 旅館の玄関先に現れた大下は岩森に「君のところはこんないい後輩がいていいなあ。僕のところは僕がいなくなったら全然だめ。頼りないよ」と話していた。「大下さんは台湾で強打者として名前が知られていました。ほめてくれたのか、ぼやいていたのか分かりませんが、声をかけられ、うれしくて感激しました」

 優勝したのは嘉義中だった。エースの木場(こば)巌は戦後、国民リーグ・大塚アスレチックスから金星スターズとプロで活躍している。

 結局、この大会が全国大会最後の台湾予選となるが、当時最後だとは分からない。「甲子園を夢見て練習していました」と岩本さんは言う。「ただ、船で無事に内地に渡れるだろうか……という不安はありました」。戦局が悪化するなか、基隆―神戸などの内台航路は危険が増していた。

 監督は平安中(現龍谷大平安高)元監督の小笹清一だった。40年に戦地から復員して就任、ユニホームも「KARENKO」から平安デザインの「Katyu」に変えて猛練習を積んだ。

 台湾の日は長いが、日が沈んだ後もノックは続いた。最後のベースランニングでは苦しくて泣きだす者もいた。小笹監督は「こらー! 仲間がアゴを出しているのに知らん顔か?」と叱り、「頑張れ」と励まし合った。連日大声で歌った応援歌は今も歌える。

 練習後、皆で真っ暗な道を歩いて帰った。売店でサイダーと乾パンを買って食べた。水源地近くの坂道で蛍狩りをした。

 この41年は夏の大会後の9月、全島秋季選抜大会で創部以来初優勝を飾り、感激を味わった。開会式で宮城遥拝し、閉会式では万歳三唱した。

 同年12月8日、太平洋戦争に突入した。朝、登校すると級友が騒いでいた。「何?と聞くと、アメリカと戦争になったと言う。ピンときませんでした」。敵性競技で弾圧されていた野球だが、台湾では内地ほどの排撃はなかったようだ。

 1942(昭和17)年も春季選抜、夏の大会と例年通り開かれた。ただ、4年生になった岩本さんたち花中はアクシデントに見舞われた。当時は会場の台北まで船、バス、汽車を乗り継いで片道約10時間の「陸の孤島」。移動中、大型台風にあい、橋が壊れて通れない。激流のなか対岸まで荷物を担いで渡った。「花中ナインの母校愛」と新聞記事になった。

 このため、打ち合わせ会・組み合わせ抽選会には間に合わなかった。参加校代表者は「花中を1回戦不戦勝にして、日程を遅くしよう」と決議した。「組み合わせに美談」とまた記事になった。

 最上級5年生になった1943(昭和18)年、ついに台湾でも大会中止となった。「最後の夏の大会の直前でした。張り切っていたのですが……。がっかりと言うより、気が抜けてしまいました。練習もなくなり、弾けたようでした」。友人の下宿先だった旅館ですき焼きをしたり、蓄音機で淡谷のり子やディック・ミネらの流行歌を流して騒いだ。

 卒業後、台北師範に進んだが、1945(昭和20)3月、応召。関東軍に入隊し終戦を迎えた。母親とは離別、父親とは死別した。46年4月、「裸一貫」で引き揚げとなり、船が着いた鹿児島から大阪に出た。

 初めての内地生活は苦労の連続だった。工場で夜遅くまで働き、朝起きれば少ない小遣いからスポーツ紙を買った。休日には草野球を1日3試合、ダンスホールにも出かけた。25歳で肺結核となり、山の療養所で入院生活も送った。

 2010年、台湾に渡り、生家があった所を訪ねると、庭に植わっていた果物レンブの木が大木に育っていて驚いた。

 岩本さんは「よくこの歳まで泳いできたなあ」という言い方をした。海の向こうの故郷から、遠い少年時代から、人生の“遠泳”だろうか。「食べるため、生きるために泳いできました。野球で培った体力と精神力のおかげで泳いでこられたのでしょう」

 足を悪くし、球場通いはかなわないが、今もテレビで見て、新聞を読む。今夏、第100回を迎える甲子園大会も青春時代に帰ろうと楽しみにしている。 (編集委員)



 ◆内田 雅也(うちた・まさや) 1963年2月、和歌山市生まれ。岩本力さんはスポニチ本紙の愛読者で、2010年に投書を頂いて知り合った。すべて保管してある手紙・はがきを数えると55通あった。出張先・沖縄の市場でレンブを見つけて送ると「懐かしい」と喜んでくれた。

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