北山さんは日本のサッカーを強くした恩人

[ 2019年6月20日 13:43 ]

<コパ・アメリカ 日本代表練習>日本サッカー協会と南米サッカー連盟とのパイプを構築した北山朝徳氏の死去を受けて、練習の冒頭に黙とうとささげる久保建ら日本イレブン(撮影・大塚 徹)
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 【大西純一の真相・深層】日本サッカー協会のブエノスアイレス在住国際委員を務めていた北山朝徳さんが6月18日、亡くなった。まだ72歳だった。数年前からがんと戦い、快方に向かっていただけに残念だ。

 北山さんがいなければ、日本のサッカーの今日はなかったといっていいだろう。日本が強くなったのは93年5月にJリーグが開幕し、選手がプロとなったことが一番。同時に日本代表を強化し、W杯の招致成功したことも大きな要因だった。北山さんはその3つすべてに尽力した。

 Jリーグ開幕時に世界中から一流選手が来てレベルアップに貢献したが、北山さんはアルゼンチンのラモン・ディアス、メディナ・ベージョ(ともに横浜M)ら多くの選手を日本に紹介した。
 日本代表の強化については、日本サッカー協会が監督のプロ化に踏み切りハンス・オフト氏が就任したが、同時に強化試合のあり方も変えた。それまでキリンカップなどはヨーロッパや南米のクラブチームを招き、日本代表と対戦していたが、対戦相手を代表チームにした。強豪チームと国際Aマッチで対戦することで、レベルアップを図った。その第1号が92年のキリンカップで、アルゼンチンとウエールズが来日した。日本は初戦のアルゼンチン戦で0-1で負けたものの、いい内容だったことで自信を付けた。世界トップクラスの国を呼んで日本代表と真剣勝負――当時の日本の実力や状況を考えればハードルは高かったが、アルゼンチンにルートがある北山さんがいたことで実現、これを契機に世界が日本を見る目も変わった。

 2002年W杯招致も、日本は厳しい状況だった。ライバル韓国は鄭夢準(チョン・モンジュン)会長がFIFA理事となり、FIFAの動きを把握していた。日本はFIFA理事選挙で敗れてFIFAとのパイプがあまりなく、苦しい状況だった。北山さんが築いたアルゼンチン協会や南米連盟とのパイプでFIFAの動きや考え方を知ったことも大きかったが、FIFA理事たちとの付き合い方を知ったことが何よりも大きかった。

 アルゼンチンサッカー協会のデルーカ専務理事(当時)と北山さんは大親友で、毎日のように話をしていた。デルーカ氏の盟友、アルゼンチン協会のグロンドーナ会長とも懇意だったからできたことだった。

 北山さんは「FIFAの理事と互角に付き合うには、プールサイドで一緒に寝そべって世間話ができるか」と言っていた。「ホテルでカップラーメンを食べていては駄目だ。相手のところに行かなきゃ」と、交渉術の一端を示してくれた。日本がFIFAから認知されたのは北山さんのアドバイスだった。

 自身はサッカーの経験がなかったが、アルゼンチンに渡った直後の1978年W杯アルゼンチン大会で日本のサッカー関係者と知り合い、サッカーと関わった。長沼健さん、川淵三郎さん、小倉純二さん、田嶋幸三さんら歴代会長も北山さんを頼りにしていたし、北山さんもズバズバと意見を言った。

 「アルゼンチンは戦後すぐは国力があったんだ。ただ、そこからずっと変わっていないだけなんだ」とアルゼンチン式ジョークで笑わせた。いつも派手な柄のシャツを着ていたが、「エルザ(夫人)がこれが似合うと言うんじゃ」と、広島弁で譲らなかった。2014年、来日中にエルザ夫人が急死してから少し元気がなくなったが、まだまだ世界のサッカー界に必要な人だった。

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