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ヴィレッジ復活信じ…ザックJ専属シェフ 原発作業員支える

[ 2014年3月12日 09:36 ]

Jヴィレッジにサッカーが戻ることを信じて被災地で奮闘する西シェフ。後ろには贈られたユニホームなどが並ぶ

 故郷の福島でレストランを営むサッカー日本代表の専属シェフ・西芳照氏(52)が11日、東日本大震災から丸3年の節目を迎えて胸の内を語った。福島第1原発から南に約20キロに位置するスポーツ施設Jヴィレッジ内に11年8月に「ハーフタイム」、同11月には近接する二ツ沼総合公園内に「アルパインローズ」と2つのレストランを開業。再びJヴィレッジにサッカーが戻る日を信じて被災地で奮闘している。

 気が付けば時計の針は午後2時46分を回っていた。東日本大震災から丸3年を迎えた11日。西シェフは普段通り午前4時20分に起床し、自宅から車で5分ほどに位置するJヴィレッジに向かった。施設内で経営するレストラン「ハーフタイム」の厨房(ちゅうぼう)に入り、復興支援ボランティアとして宿泊する東電社員らのための朝食を準備。この日は従業員と2人で110食を作った。その後は海辺に行き、3年間を振り返り黙とう。すぐに昼食の準備が待っていたため、震災発生時刻は慌ただしい日常の中で過ぎていた。

 「海を見つめながら、静かにあの日からきょうまでのことを思い出していました。落ち着いてきて、前進しているようにも思える。でも、原発の状況や避難者の生活はほとんど変わっていない」

 11年3月11日、Jヴィレッジでランチの片付けを終えた直後に被災。家族の安否確認もできない状態で、施設にあった食料で炊き出しを続けた。その後、所属会社の事業部配属となり家族と東京に移り住んだが「被災した地元のために何かしたい」との思いが膨らみ6月に退社。東電からの要請もあり、震災から半年後の8月にJヴィレッジ内での仕事を再開した。11月には近接する施設にレストランも開業。当初は仕事中も線量計を手放せない状態だった。

 「疲れ切った作業員の方が廊下で寝ていたりしていて…。ご飯もろくに食べていない状況が続いていた。とにかく、まずは温かい食事を出そうという思いだった」

 Jヴィレッジに11面あった天然芝グラウンドは消え、砂利の駐車場や仮設住宅に変わった。広野町では11年9月に緊急時避難準備区域が解除され、小中学校も12年2学期から本来の校舎で授業を再開したが、町に戻っているのは人口約5000人の3分の1程度。人口減少により、西シェフが経営するレストランの経営も楽ではない。ランチを500円から600円に値上げする苦渋の決断もした。苦境を救ってくれるのは、いつもサッカーで培った仲間だった。

 04年から日本代表の専属シェフとして遠征に同行。当初は所属会社を通しての派遣だったが、日本協会の要望で退社後も厨房を任される。震災直後には、横浜の中村、中沢らから「何かできることはありますか?」と連絡が入った。鹿島の小笠原からは「Jヴィレッジが復活するまで現役を続けるので、早く再開できるように頑張ってください」と激励されている。

 昨年末、前日本代表監督の岡田武史氏が「西のところは大変だろう」とW杯南アフリカ大会のスタッフを連れて忘年会を開催。大木武、大熊清氏ら約20人による大宴会でお金を落としてくれた。昨年11月には、奮闘を知った日本代表サポーター約70人が来店。主催者の呼び掛けで、北海道や神戸など全国各地から侍ブルーのシャツを着た仲間が集結した。

 「本当に仲間に恵まれていると、あらためて感じることができた。サッカーファミリーの絆は強いし、サッカーの力は大きい。ソチ五輪もそうだけど、選手の姿を見て“私も頑張ろう”という気持ちになる人は多い。Jヴィレッジはサッカー界のシンボル。ここが復活しないと本当の復興はないと思っている」

 日本協会はJヴィレッジを20年東京五輪日本代表のベース合宿地にする意向を持ち、2年後には芝生の種がまかれる予定。97年の開設以降、合宿や大会で約100万人が利用した「サッカーの聖地」。日常が戻ることを信じ、西シェフは12日も早朝から包丁を握る。

 ◆西 芳照(にし・よしてる)1962年(昭37)1月23日、福島県南相馬市出身の52歳。高校卒業後に上京し、京懐石などの料理店で和食の修業を積む。97年から福島県に開設されたJヴィレッジのレストランに勤務し、99年に総料理長に就任。04年から日本代表の専属シェフとして遠征に同行する。現在はJヴィレッジ内の「ハーフタイム」、近接する二ツ沼総合公園内の「アルパインローズ」の2つのレストランを営む。

 ▽Jヴィレッジ 97年に総工費130億円を投じて開設されたスポーツ施設。日本サッカー界初のナショナルトレーニングセンターで、福島県双葉郡の広野町と楢葉町にまたがる。福島第1原子力発電所事故に伴い、11年3月15日以降はスポーツ施設としては全面閉鎖し、原発事故の対応拠点となった。事故前は11面の天然芝ピッチがあり、90室262人収容のホテルなども併設。ラグビーなどの合宿地としても活用された。02年W杯日韓大会ではアルゼンチン代表のベースキャンプ地。

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2014年3月12日のニュース