【あの甲子園球児は今(17)PL学園・井上大樹】“最後の勝利投手と敗戦投手”が感じるPL学園の重み

[ 2022年8月21日 07:30 ]

甲子園でのPL学園・井上大樹投手
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 甲子園大会で春夏合わせ7度の優勝を誇り歴代3位の通算96勝をあげたPL学園は、16年夏を最後に休部状態が続く。一時代を築き高校球界をリードした、かつての名門が最後に聖地に登場したのが2009年夏。背番号1を背負い“最後の勝利投手と敗戦投手”になっている井上大樹は、おぼろげな記憶をたどりながら13年前を振り返った。

 「あんまり覚えていないんですよね……。6回投げきってベンチでひと息ついた時にたくさんの人が入っていたことに気づいたぐらいです。試合に集中しすぎていたのかな」

 8月15日。初戦となった2回戦・聖光学院戦は午前8時32分開始の第1試合ながら4万7000人の大観衆で埋まった。チームは同年選抜に続く出場も井上自身は甲子園初登板。無我夢中で左腕を振り6回6安打3失点。5度も先頭打者の出塁を許しながら持ち味である低めに球を集めた。6回に同点に追いつかれたが直後の攻撃で味方が3点を勝ち越し、7回からは2年生右腕の難波清秀が3回無失点で逃げ切った。「野手に迷惑ばかりかけてしまって、申し訳ない1勝です」と“ラスト勝利”に苦笑いを浮かべた。

 中学時代に球速は130キロ台を計測する本格派で「中学生の頃はプロ野球選手になれると思っていました」という。PL学園でも1年秋からメンバー入りしたが、秋の大会中に腰椎分離症を発症して入院し暗転。以降は満足いく真っすぐを投げることができなくなった。入れ替わるように同学年で同じ左腕の中野隆之が台頭。背番号1の中野は09年選抜の1回戦・西条戦で1―0完封。2回戦の南陽工戦は延長10回惜敗したが9回終了時点で無安打投球を演じる快投で、差を広げられた。

 だが、選抜後の春季大会では左肘痛の中野に代わって難波とともに投手陣をけん引。直球は120キロ台に低下していたが「OBの前田健太さん(現ツインズ)を参考にした」という80キロ台のスローカーブを習得し、打たせて取る投球を確立。春の大阪大会を制し、迎えた最後の夏も中野が登板できず背番号10ながら主戦を務めた。決勝の関大北陽戦では6安打完封で甲子園切符を勝ち取り、中野が甲子園大会のメンバーから外れたことでエースナンバーを背負った。

 「甲子園といわれてよみがえる記憶はあまりないんですけど、あの1球だけは今でも思い出します」

 忘れられないシーンがある。3回戦の県岐阜商戦。1点劣勢の3回2死二、三塁、相手先発投手だった山田智弘を追い込んだ後、直球のサインに首を振りスライダーを選択したが、結果は左翼フェンス直撃の2点二塁打。直後に降板しチームも追いつくことなく敗れた。2回2/3を投げ3失点(自責2)。PL学園の通算30敗目でもあった。

 「今になって考えると僕はPL学園の背番号1の器ではなかった。それでも背負わせてくれた監督、コーチ、チームメートに感謝しています」
 卒業後は東都大学野球の立正大に進学し、1年秋からリーグ戦に登板。吉田裕太(現ロッテ)らとともに4年間プレーし、野球に一つの区切りをつけた。

 ユニホームを脱いだ後は外資系の医療機器メーカーで営業活動に「全力投球」を続ける。今年で北海道在住6年目を迎え、5月には同業種に転職した。

 「野球に未練がないと言えば、うそになりますけど、社会人になってPL学園の重みは日々、感じています。先輩方が築き上げてくださった伝統に感謝しています」

 新天地でも野球談議に花を咲かせ、上司や取引先から「PLの野球部は復活しないの?」と必ず聞かれる。井上のアンサーはいつも同じだ。「僕も復活してほしいと思っています」。永遠(とわ)の学園に「終わり」はない。=敬称略=(石崎 祥平)

 ◇井上 大樹(いのうえ・だいき)1991年(平3)4月18日生まれ、大阪府大阪市出身の31歳。長吉小4年から軟式野球を始め外野手。長吉西中では羽曳野ボーイズに所属し投手として春季全国大会出場。関西北選抜にも選出された。PL学園では1年秋から背番号10でベンチ入りし3年時の09年に春夏連続で甲子園出場。立正大では1年春からメンバー入りした。1メートル78、70キロ。左投げ左打ち。

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