【球春ヒストリー(10)】2002年・鳴門工 劣勢続く工業高校がつかんだ準V

[ 2020年3月29日 09:30 ]

02年センバツ、惜しくも準優勝に終わった鳴門工
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 1975年には736あった工業高校も以降は減少の一途をたどり現在では530校を切るまでになっている。甲子園出場も、中止となった今選抜は0校で昨夏も熊本工1校のみ。劣勢が続くだけに2002年の第74回大会における鳴門工(現鳴門渦潮)の準優勝は価値がある。当時監督だった高橋広氏(65)も、話題を振られるとうれしそうに笑った。

 「私の唯一の自慢です。長い甲子園大会の歴史の中でも春夏合わせて工業高校が決勝に進んだのは5校しかないわけですから」
 春は優勝した1968年大宮工と鳴門工。夏は熊本工が3度決勝進出(いずれも準優勝)し59年の宇都宮工と65年Vの三池工があるが、春夏通じても鳴門工が最後のファイナル進出となっている。

 80年に監督就任し、ともに初戦敗退だった99年春、01年夏に続く自身3度目の甲子園だった。「自信なんて全然なかった。合言葉は“とにかく1勝しよう”でしたからね」。日本航空に1―11で大敗した前年夏からエース丸山哲也と4番捕手の浜永和弘のバッテリーは残ったが、同秋は徳島大会準優勝で続く四国大会もベスト4止まりだった。

 選出されることを信じ冬場に初めて取り組んだのが「宿泊合宿」だった。過去2度は大会初日と大会2日目に試合があり、宿舎生活に慣れないまま試合に臨んだ反省を生かした。主に金曜夜から2泊3日や3泊4日で学校や他の施設で練習し寝食をともにした。兵庫・淡路島では3日間で計150キロを走るなど超ハードなトレーニングを課し「選手が泣いたのを初めて見た」とエース丸山が練習中に涙を流すなど心身ともに追い込んだ。

 酒田南との1回戦は大会初日の第2試合。「この運を逃したらダメ」とリズムをつくるべく過去2度よりも2日早く宿舎入りするなど最善の策をとった結果、7回に浜永の2点二塁打で逆転し丸山がしのいで待望の“初勝利”をつかんだ。

 「あれで肩の荷が下りたというか。あとは無欲の勝利でしたね」

 初勝利翌日には大阪の街を散策し吉本新喜劇を見て大笑いしたという。2回戦以降も接戦あり、大勝ありと変幻自在の試合運びで一気に決勝まで進んだ。

 報徳学園との決勝は丸山が3回までに7失点するなど完敗。「決勝だけ選手の雰囲気が違った。浮足立っていたんでしょうね。私にも“日本一になる”というどん欲さがなかった」。18年の時を経て、少しだけ悔いた。

 ◆高橋 広(たかはし・ひろし)1955年(昭30)2月4日生まれ、愛媛県出身の65歳。西条では甲子園出場なし。早大では4年時に学生コーチとして岡田彰布(元阪神監督)を指導。80年に鳴門工監督に就任し99年春から08年夏まで計8度甲子園に出場した。15年から18年まで早大を率い、19年から神戸医療福祉大で監督を務める。

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