“松井5連続敬遠”の河野さん 「55」背負った紆余曲折の野球人生

[ 2016年11月18日 11:10 ]

米軍横須賀基地のチームとのチャリティーマッチを終え、記念写真に収まる河野和洋さん(本人提供)

 暑かった夏。あの5打席連続敬遠から、実に24年の歳月が流れた。「あれがなかったら、ただのオッサンですからね。当時は大変だったけど、今は良かったな、と思います」。河野和洋さん(41)。明徳義塾の投手として出場した92年夏の甲子園。2回戦で星稜の主砲・松井秀喜さん(元巨人、ヤンキースなど)を5打席連続で歩かせた。グラウンドにはメガホンや帽子が投げ込まれ、試合が一時中断。社会問題にも発展した「事件」だった。

 松井さんの引退から4年。河野さんもユニホームを脱ぐ決意をした。専大、ヤマハとプロの世界を目指してプレー。渡米して独立リーグに身を投じた時期もあった。不惑を過ぎ、今季限りで専大の同期で主将と副主将の関係だった広島・黒田が引退。「黒ちゃんも引退で…。自分も“もういいかな”と。体もボロボロでしたし」。最後の肩書きは、クラブチーム「千葉熱血MAKING」の監督兼選手だった。

 「千葉熱血~」では07年から10年間プレー。「とにかくグラウンドを探すのが大変だった。土日に練習試合、大会…。年間100試合以上はやっていましたから」。チームは決まったグラウンドがなかったため、練習や試合の場所を確保するために奔走した。「野球のことばかりを考えていた」という10年間。松井さんへの敬遠で「知名度」があった河野さんは、「クラブチームの野球を世の中に知ってもらいたい。広めたい」との使命感に突き動かされた。

 定期的にチャリティーマッチも開催。11月5日には、公益財団法人東日本盲導犬協会への寄付を募る試合を行った。相手は米軍横須賀基地のチーム。松井さんの現役時代と同じ、背番号55を付けた河野さんは「4番・DH」で出場も4打数4三振。この試合を最後にユニホームを脱いだ。試合後はナインの手で胴上げもされた。

 母校・明徳義塾は秋季四国大会で優勝。神宮大会に出場した。河野さんは試合のあった11日、神宮球場を訪問。馬淵史郎監督にあいさつし、引退を報告した。「お疲れさんだったなあ」――。そんな言葉を掛けられた。17歳の少年は、松井さんを5連続敬遠してブーイングという言葉を初めて知った。「背番号55を背負って、40歳を過ぎてもプレーができた。いろんな人と出会いもあって…」。紆余曲折の野球人生。「楽しかったですよ」。河野さんはそう言って、ひげの似合う顔をほころばせた。(記者コラム・鈴木 勝巳)

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