【ラグビーレジェンド対談第2回】大八木淳史氏と山口良治氏(2)

[ 2023年10月21日 05:10 ]

山口良治さん(左)、大八木淳史さん
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 元ラグビー日本代表の大八木淳史氏(62)がゲストを招いてトークする「レジェンド対談」がスタートします。第一弾は大八木氏の恩師で、日本代表フランカーとしても活躍した元伏見工業高校監督の山口良治氏(80)です。あの伝説のテレビドラマ「スクール☆ウォーズ」の主人公、滝沢賢治のモデルにもなった“泣き虫先生”が、教え子の“暴れん坊”と語り合った。 対談動画はこちらから

 第2回は「ラグビーとの出会い 日本代表キッカーの原点は、おやき!!」(対談映像はYouTube「スポニチチャンネル」で配信中です)

 大八木 山口先生はもともとは野球をされていましたよね。

 山口 当時、福井の高校にラグビー部は2校しかなかったからね。福井工業と若狭農林(現若狭東)。まったくラグビーなんてやるつもりはなかった。

 大八木 ラグビーをやるきっかけは何だったんですか?

 山口 若狭高校か敦賀で野球がしたかった。敦賀にひげの辻さんっていたでしょ(辻佳紀・敦賀―明大―阪神ー近鉄―大洋).
あの人に憧れてキャッチャーやったしね。オレは志望校に敦賀と書いたんやけど、先生がペケをつけていた。オヤジに頼まれたんやろね。

 大八木 農家を継げということですか?

 山口 仕方ない。若狭高校も野球部があったから、そこで野球をやればいいと思った。当時、若狭農林と校舎は違うけど、農林に行っても若狭高校で野球ができたんですよ。そう思って若狭農林に行ったんやけど、入学したら若狭農林高校って独立していたんですよ。それで若狭高校に行けなくなった。もう、高校を辞めようと思った。そのときに吉本という怖い先輩がいて、1年生集まれと言われて。そのときに大きかったので、その吉本先輩に「大きいからラグビーやれ」と言われて初めてやった。
 グラウンドに2、3個転がっているボールを見て、変わったボールやなぁと思って。まさか自分がやるとは思っていなかった。本当にあの人(吉本先輩)のおかげやで。

 大八木 部員は何人くらいいたのですか?

 山口 20人くらいいました。

 大八木 ポジションは大きいから最初からフォワードだったのですか?

 山口 大きいけど、足も遅くてね。当時、東小浜の家まで電車は1時間に1本。駅までダアーッと走って帰ったね。
 キックの練習では「おやき」をかけた。負けた方がおごる。 オレの家はお金がなかったから、負けられないから真剣に蹴った。勝って、いつもおごってもらった。
 それがジャパンのキッカーですよ。

 大八木 ジャパンのキッカーの原点は「おやき」やったんですね。それで真剣にキックを覚えたんですね。高校時代の最高成績は?

 山口 福井工業に勝ったり負けたり。北陸3県大会で石川に1回勝ったくらいかな。

 大八木 大学は最初、日大に入学されましたが。

 山口 日大に行ったのは中学校2年生の時に、自分の家にいるのが嫌やったから先生に家に泊めてもらった、メシを食わせてもらったり大事にしてもらった。その頃から教師になろうと決めた。

 大八木 最初、日大に入って教師を目指すことになりました。当時は理不尽なことがたくさんあったのですか?

 山口 教師になろうと思って日大に入学したのに、こんな状態じゃ教師になれない。日体大の栗本義彦学長に、その先生に日体大だったら体育の教師になれるから、編入試験を受けた。短大から学部に転部する女の人ばかりだった。男は私一人だった。編入できるかどうか分からない。初めて編入試験を受けた生徒だったから。実家に帰って、役所を手伝っていた。そうしたら妹が学長からのはがきを持って来てくれた。あと3年間、今の気持ちを忘れずに頑張りたまえと。とび上がって喜びました。

 大八木 綿井永寿先生とはどこでお会いになったのですか?

 山口 ラグビー部の監督でした。

大八木 レギュラーはいつからですか?

 山口 2年生の終わりから。うれしかったな。1軍は早く(練習を)あがれるの。山口さんというOBがいて、1軍だけ分厚いハムステーキを差し入れてくれる。今でも感謝していますよ。

 大八木 食べ物でいつも人生、変わりますね。「おやき」から始まって「ハム」。次は何か楽しみですね。

 大八木 先生は何歳からジャパンですか?

 山口 4回生のときに東洋大学の野球部にトレーニングを教えに行った時、フリーバッティングの時に打たせてもらった。バーンッ打ったら野球部の部長が、君のバッティングにほれた。東洋大学で野球をやれよと誘われた。野球をやりたいなぁと思った。
 その時に(日体大の)マネジャーから連絡があって、オール関東に選ばれたと。そんなこと全然考えてなかったから。すぐに帰って来いと。3地域対抗に出場したね。当時、九州が強くてね。関東はボロンチョンに負けてね。

 大八木 東洋大に行ったときに関東代表に選ばれていなかったら、東洋大に行ってたんですか!

 山口 人生わからんよ。就職は綿井さんに近鉄かトヨタに行けと言われたけど、教員になりたくて。ちょうど京都市役所も話があったんやけど。岐阜で教員やっているときに名古屋で近鉄とトヨタの試合があった時に、生徒を連れて観に行ったんですよ。そうしたらオール関東で一緒にやっていたヤツがキャーキャー言われているんですよ。
 ちょうど、その頃に京都市役所におられた野々村さんという方が、岐阜まで来てくださって、教育委員会に入れてあげると。それだったら将来、教員をやれるとなって、京都に来たんです。

     (続く)

  ◇山口 良治(やまぐち・よしはる)1943年(昭18)2月15日、福井県三方生まれの80歳。若狭農林高(現若狭東)から日大、日体大(編入)。1974年に伏見工(現京都工学院)に赴任。翌75年にラグビー部監督に就任し、1980年、92年と2度の日本一に導いた。現役時代のポジションはフランカー。キッカーとしても活躍。日本代表キャップは13。

 ◇大八木 淳史(おおやぎ・あつし)1961年(昭36)8月15日、京都市生まれの62歳。伏見工からラグビーを始め、同志社大―神戸製鋼。同志社大時代は大学選手権3連覇、神戸製鋼時代は日本選手権7連覇に貢献。現役時代のポジションはロック。日本代表キャップ30。

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