追悼連載~「コービー激動の41年」その27 ジャクソン新監督が持ち込んだ指導方針

[ 2020年3月14日 09:00 ]

2011年のNBAプレーオフ西地区準決勝<マーベリクス・レイカーズ>試合中にブライアント氏(左)と話すレーカーズのジャクソン監督(AP)
Photo By AP=共同

 【高柳昌弥のスポーツ・イン・USA】やがてブルズとレイカーズの監督となるフィル・ジャクソンは、ノースダコタ大から1967年5月3日のNBAドラフト2巡目(全体17番目)でニックスに指名された。ブレッツ(現ウィザーズ)が本命視されていたが、当時スカウトだったレッド・ホルツマン(のちのニックス監督)がその動きを察知して「奪い獲った」と言ったほうがいいかもしれない。ニューヨークの空港でジャクソンを出迎えたのもホルツマン。ジャクソンにとってはこれは運命的な出会いで、のちの監督人生に大きな影響を与えた人物でもあった。

 当時47歳でスカウト歴10年目だったホルツマンのアドバイスは印象的だった。「大事なことが3つある。よく聞け。(1)夜になったらカミさんに金のことは話すな(2)ハゲ頭の主人がいる理髪店で髪を切るな(3)ウエイターから医学的なアドバイスはされるな」。社会人1年生のジャクソンは目をきょとんとさせる。ここからは私の解釈だが(1)はNBA選手となれば遠征ばかりなので自宅にいるときくらいは夜のお努め?を大切にしなさい。金の話をするとムードを台無しにする…ではなかったか?(2)は他人のことをきちんと考えてくれる人と接しなさい、(3)は必要な情報は専門家に聞け、という人間としての生き方と処世術を彼流のジョークを交えて説明したのではないかと思われる。

 幼いころから読書にふけり、高校時代も「THE・BOOK」というあだ名がついたジャクソンはやがて禅に傾倒していくが、「言葉」で何かを教えるというのは、このホルツマンとの最初の出会いにルーツがあるように思う。今年1月に亡くなった故・野村克也氏と指導者としての色合いがとても似ているような気がしてならない。

 さてそのジャクソンが「レイカーズと5年で3000~3500万ドルで契約に合意」というニュースが流れたのは1999年6月15日。実はそのときジャクソンはロサンゼルスにも自宅のあったモンタナにもいなかった。足を運んでいたのは息子と一緒に釣りに没頭していたアラスカ。そこでボートを下りたとき、イヌイットの少年に「あなたはレイカーズの新監督になったんですね」と告げられた。SNSがあればもっと情報は機敏に世界を駆け巡ったであろうが、当時の伝達速度はこんなもの。自分の監督就任のニュースを旅先で少年に知らされるあたりにジャクソンらしさが出ている。

 ジャクソンはレイカーズの監督を引き受ける際、指導の基本として「ドンファンの教え」という本からヒントを得たと語っている。ブラジル生まれの米国人作家で文化人類学者のカルロス・カスタネダが書いた本。メキシコで出会った呪術師との交流をベースにスピリチュアルなストーリーが語られているが、正直言って理解するのは難しい。ただジャクソンが「フィルター」になってくれると少しだけおぼろげな姿が見えてくる。それはやがてコービー・ブライアントの心の隅にも置かれることになる。

 「すべての方法を慎重にかつ綿密に見つめよ。そして必要と感じただけ試みよ。それから自分に問いただせ。その方法は心がこもっていたかどうかを。もしそうならばいい方法だ。そうでなければ意味はない」。ジャクソンがレイカーズに来るにあたって、カスタネダのこのフレーズを指針としたのは理由がある。ご存知の通り、当時のレイカーズはシャキール・オニールとブライアントの2人が屋台骨を支えていた。ところがブルズ時代のジョーダン&ピッペンと大きく違ったのは、この主力2人の仲がきわめて悪かったこと。オニールは「あいつと一緒じゃ優勝なんかできない」と公然とブライアントを批判し、ブライアントも言葉にしないまでも不機嫌な態度を露骨にとったりしていた。

 「すべての方法を慎重にかつ綿密に見つめる」というスピリチャルな指導方法。いよいよ“ジャクソン丸”が船出のときを迎えていた。(敬称略・続く)

 ◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、北九州市出身。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。NFLスーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会には一昨年まで8年連続で出場。フルマラソンの自己ベストは2013年東京マラソンの4時間16分。昨年の北九州マラソンは4時間47分で完走。

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2020年3月14日のニュース