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【コラム】金子達仁

あれから20年 日本人が打ち砕いてきた「世界の壁」

[ 2018年9月15日 18:00 ]

 20年前のきょう(98年9月13日)、ホテルの窓から見えるローマの景色は雨で煙っていた。せっかくの門出の日に、およそ清々(すがすが)しいとは言い難い空模様。込み上げてくる不吉な思いを、強引に抑えつけたことは覚えている。

 この日は、中田英寿のセリエAデビューの日だった。

 なぜあのときのわたしは、あんなにも不安だったのか。口では、ペンでは「中田ならば大丈夫」と強弁していたくせに、それを自己否定するような感情を湧き上がらせてしまったのか。

 日本人だったから、だと思う。

 あのころの日本人は、日本人であるがゆえに100メートル走で10秒台を切るのは不可能だと思い込んでいた。テニスのグランドスラムで勝つのも、自動車レースやボクシングの重量級でチャンピオンになるのも、とにかく、日本人が勝ったことのない世界で勝つのは、日本人であるがゆえに無理だと決めつけていた。日本人であることが、勝てない理由、通用しない理由になっていた。

 あのころのわたしたちは、自分たちで強固なガラスの天井を作り上げ、そこにはね返されるたび、「世界の壁」なる言葉を使って自己憐憫(れんびん)に陥っていたのである。

 日本のアスリートにとっては、極めて難しい時代だった。彼らは、対峙(たいじ)する相手は挑戦する記録だけでなく、日本人自らが築きあげてきた見えない限界にも挑戦しなければならなかった。そして、挑戦しようとする者には、嘲笑や罵声が浴びせられることさえあった。

 98年9月13日は、だから、中田英寿が日本サッカー界の「ガラスの天井」を打ち砕いた日だった。

 セリエBから昇格してきたばかりのペルージャにとって、ユベントスはあまりにも巨大な相手だった。高校サッカーで言えば、地方の初出場校が優勝回数No・1の超名門にぶつかるようなものである。

 案の定、試合は前半だけでユベントスが3点を奪う一方的な展開となった。ペルージャの選手たちは、デル・ピエロやジダンと対峙する以前に、白と黒のタテジマにのまれてしまっていた。

 唯一の例外が中田だった。

 本人に言わせれば「無知だったのがよかった」ということになる。彼は、イタリア人ほどにはユベントスの強さを刷り込まれていなかった。21歳だった中田にとって、ユベントスはペルージャと同じセリエAの1チームにすぎなかった。

 そして、彼はゴールに飢えていた。

 「得点という形で結果を出していかないと、自分のやりたいこともできないって感じてましたからね」

 角度のないところから決めた初ゴールは、普段の彼ならばパスを選択している場面だった。「やれる」という自信と「やらなければ」という切迫感が生んだ、歴史に残る一撃だった。

 あれから20年。振り返ってみると、改めて日本のスポーツが歩んできた道のりの長さを実感する。先週末のニューヨークでは、テニスの世界でもガラスの天井が打ち砕かれた。敗北の理由を日本人であることに求める人は、いよいよ減っていくことだろう。

 高度スポーツ成長時代の到来。そんな予感がする。(金子達仁氏=スポーツライター)

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