【コラム】金子達仁

マラドーナにはいた。メッシには、誰もいない。

[ 2018年6月23日 09:42 ]

頭を抱えるアルゼンチン代表のFWリオネル・メッシ
Photo By AP

 サッカーの中継がほとんどなかった時代、マニアはW杯を全試合録画して保存し、何度も何度も、それこそ数秒見ただけでそれがどの試合の何分かがわかってしまうほど、目に焼き付けたものだった。

 時代は変わり、日本でも世界中のサッカーがリアルタイムで観戦できるようになった。マニアの一人だったわたしも、試合を録画して保存する習慣をすっかり失ってしまった。

 だが、今大会はすでに1次リーグの段階で、消去するのを躊躇(ちゅうちょ)してしまう試合があった。たとえばスペイン対ポルトガルであり、メキシコ対ドイツであり、そしていうまでもなく、日本対コロンビアである。ハードディスクの容量には限りがあるので困ったことなのだが、ここにきてまた1試合、消すのが惜しい試合が生まれてしまった。

 アルゼンチン対クロアチアである。

 凄い試合だった。両チームの選手が発していた熱量は、「これは準決勝か?」と錯覚させるほどだった。そんな試合に大敗したアルゼンチンの人たちが受けた衝撃を理解できるのは、4年前にドイツに歴史的惨敗を喫したブラジル人だけかもしれない。

 実は先日、縁あって世界一のマラドーナ・コレクターと言われる方(日本人!)とお会いする機会があり、その方が世界中からかき集めたマラドーナの映像を見ることができた。

 いままで見たことのなかった70年代のマラドーナは、“超速のレフティーモンスター”ともいうべき存在で、アルゼンチン国民がメッシを「史上最高」と認めない理由がよくわかった。メッシは成長してメッシになったが、マラドーナは15歳の時からマラドーナだったのだ。

 メッシにとって、この大会はそうした評価を逆転させる最後のチャンスである。誰よりも認めてほしいアルゼンチンの人たちに、自分がマラドーナを凌駕(りょうが)する存在であることを証明するには、モスクワで黄金のカップに接吻(せっぷん)するよりない。

 夢は、野望は、このままついえてしまうのか。

 メッシがマラドーナより上か下か。わたしにはわからない。ただ、間違いなく言えることが一つある。

 ロシアでのメッシは、メキシコでのマラドーナより孤独である。

 マラドーナという戦術で勝った、とまで言われた86年のアルゼンチンだったが、マラドーナの周りにはセルヒオ・バティスタやブルチャガ、バルダーノといった信頼できる仲間がいた。自分にマークが集中した時は、彼らを使ってチャンスをつくることもできた。

ボロボロだった90年でさえ、カニーヒアという最高級の槍(やり)を彼は持っていた。

 メッシには、誰もいない。期待される役割はマラドーナと同じなのに、マラドーナにはいた「しもべ」が、いまの彼にはいない。

 状況は、極めて苦しい。

 マラドーナのいない02年のアルゼンチンは、苦境を脱出できなかった。では、メッシのいる18年のアルゼンチンは?

 次のナイジェリア戦は、メッシにとって人生をかけた決戦となる。(金子達仁氏=スポーツライター)

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