西郷輝彦さん、橋幸夫、舟木一夫の「御三家」は僕の雑談とスポニチの見出しから生まれた

[ 2022年2月22日 05:30 ]

西郷輝彦さん死去

2000年、元祖「御三家」として初ユニットを結成で会見し、ガッチリ握手する(左から)舟木一夫、橋幸夫、西郷輝彦さん
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 【小西良太郎氏悼む】デビュー曲「君だけを」1曲で、西郷輝彦は日本クラウンの看板歌手になった。1964年、前回の東京五輪の年に発足した新しいレコード会社の新人第1号。彼と水前寺清子を筆頭に、「クラウン・スターパレード」が全国を回ったが、10代の歌手が多数を占めて、まるで修学旅行みたいなにぎわいだった。

 旅興行につきものの打ち上げは、ご当地のうまいものと美女といい酒と相場が決まっていた当時のある夜、同行記者の僕らと司会の青空星夫・月夫は、西郷のひと言でガクンと来た。

 「さあ行きましょう。ボウリング場は深夜までOKを取ってあります」

 1960年デビューの橋幸夫、63年の舟木一夫、64年の西郷は“御三家”と呼ばれて人気を競った。「ヤング・アイドル」の呼び名も生まれて、10代のファンが呼応。それまで、おとなの娯楽だった歌謡曲が、若者たちに開放された。レコード会社はうなぎ上りの利益を得て「音楽産業」を誇称する。昨今のJポップへの起点となっていようか。

 演歌の橋、学園歌謡の舟木と比べて、西郷はジャズ喫茶出身のポップス系、専属バンドのドラマーに「こういう感じで行きたいんだけど」と8ビートで叩いて注文をつけた。ベテラン奏者は4ビートの育ち。「やめた!」とドラムセットを売却、マネジャーに転じた。彼は西郷が一時所属した事務所サンミュージックの実力者にのし上がった福田時雄氏。卒寿を過ぎたが今も名誉顧問として現役である。

 結婚を一週刊誌の独占に許して不評を買った前後が転機。俳優として映画、テレビ、舞台などで名を残したが、西郷がもともと歌手だったことも知らぬファンも増えた。手前ミソだが「御三家」は僕とビクターの滝井利信・文芸部長の雑談で生まれ、スポニチが最初に見出しにしている。(スポニチOB、音楽評論家)

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2022年2月22日のニュース