共演者ら追悼 萩本欽一「今のテレビは巨泉さんが開拓した道継承」

[ 2016年7月21日 05:30 ]

1978年、「24時間テレビ 愛は地球を救う」会見で萩本欽一(右)と握手する大橋巨泉さん

 ▼朝丘雪路(「11PM」のアシスタント、「ボイン」のきっかけ)番組中、巨泉さんには、(夫の津川)雅彦さんにも作らないお弁当を自分で作って持って行っていたくらいに仲良しだったから、思いはひとしおです。

 ▼松岡きっこ(11PMのアシスタント)豪快に見えるけど、1週間前から綿密に番組の打ち合わせを行うなど努力を怠らない人でした。

 ▼うつみ宮土理 大橋巨泉さんは(夫の)愛川欽也にとってよきライバルであり、友人だった。2人は同い年で「11PM」を巨泉さんが月曜日、金曜日、キンキンが水曜日と生放送でやっていた。当時の2人の大人のトークは、中学生、高校生の男の子たちがこっそりと親の目を盗んで見ていたものだった。キンキンの葬儀の弔辞を巨泉さんが読んでくださった。あたたかく切なく友情にあふれたものだった。

 ▼萩本欽一 テレビの新しい可能性を見いだしたパイオニアで、みんながその才能を使いたがった。巨泉さんがテレビで普段使っている言葉がそのまま流行語になった。「欽ドン!」の「ばかウケ」も実は巨泉さんの言葉。今のテレビは巨泉さんが開拓した道を継承している。

 ▼徳光和夫(「クイズダービー」の後任司会)後任を務めた最初の番組収録が1時間弱(放送時間30分)だったのですが、なぜかスタッフが疲れた顔をしているんです。聞いてみると、巨泉さんは毎回35分くらいで終わったんだそうです。まさに司会の天才。自分との能力差にがく然としました。

 ▼みのもんた 教育者のような大先輩でした。文化放送のアナウンサー時代からお付き合いがあり「考えていることが(視聴者に)見透かされるようなしゃべりをするな」と言われた時は胸に響きました。僕を「もんた君」と呼び、独特のコミュニケーションを取る人でした。

 ▼藤村俊二(昭和九年会) また一人、大切な仲間が天国に行ってしまって、とっても寂しいです。

 ▼中村メイコ(同じ昭和9年生まれ)次々と生み出した新語は、いかにも戦後っぽくて、昭和のにおいがプンプンする人でした。偉そうに話すのが“巨泉流”でしたが、内面はシャイだった。

 ▼関口宏(「ギミア・ぶれいく」で共演)永六輔さんと同じ時期の旅立ちには、深いご縁を感じます。お二人とも間違いなく、テレビの創成期の立役者です。民放らしさをつくり上げた巨泉氏の功績は大きなものがあったと思います。

 ▼ソフトバンク王貞治会長 大橋巨泉さんの訃報に接し、謹んでお悔やみ申し上げます。多種多芸だった巨泉さん、多くの人々に生きる楽しみや喜びを教えてくれました。野球一筋の私にとって、巨泉さんの生きざまは本当にうらやましく人生のお手本でした。心から感謝しています。巨泉さん、ありがとう。

 ▼岡部幸雄元騎手 巨泉さんは競馬に造詣が深く、評論家としても活躍された。忘れられないのは第1回ブリーダーズC(84年、米国最大のG1シリーズ)がハリウッドパーク(米カリフォルニア州)で開催されたとき。すぐに映像を入手した巨泉さんは、東京競馬の騎乗を終えた私と政人(柴田政人元騎手)、祐ちゃん先生(故野平祐二調教師)を誘って、「凄い競馬だから見てみろよ」とプライベート上映会を開いてくれた。とても革新的な人だった。

 ▼難波一弘TBSビジョン代表取締役社長(番組「ギミア・ぶれいく」元プロデューサー)企画からさまざまなアドバイスをいただきました。視聴率が見込めなくても、意義あることはやるべきと励ましていただいたことは大切な思い出です。

 ▼爆笑問題・太田光 「太田、おまえはバカだなぁ」とよく叱られた。私がムキになって反論すると、豪快に笑い「おまえの気持ちは分かった。でも間違ってるよ」と、今度は優しく言う人だった。

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