元祖「マルチ」巨泉さん 原点は終戦間際の機銃掃射、死にかけて…

[ 2016年7月21日 05:35 ]

01年の参院選で民主党から立候補。選挙運動中、新橋駅で寿々子夫人に汗をふいてもらう大橋巨泉さん

大橋巨泉さん死去

 テレビ黄金期を司会者として支えた大橋巨泉さん。豊富な知識、独創的な流行語、ひねりの効いたコメント…。多芸多才でジャズ評論家から政治家まで幅広く活躍した。お茶の間にはいつも笑顔で向き合い、人生を前向きに謳歌(おうか)したその姿には、芸能界からも悲しみの声が続々と上がった。

 巨泉さんは人生の原点を「8月15日」と言った。終戦間際の1945年の夏、疎開先の千葉県横芝町(現横芝光町)でのこと。小学校の帰りに米軍機の機銃掃射に見舞われ、命を落としかけた。

 直後に迎えた終戦。皇国少年だった巨泉さんは、敗戦に頭が真っ白。自分自身を否定され、この先1年間の記憶が抜け落ちているという。これが転機。1年の空白期間は命の再生や希望につながり、「思い切りやりたいことをやろう」という気持ちを育んだ。

 仕事も遊びも全力。テレビ番組で見せるプロ意識は強烈で、共演者に「さん」はつけなかった。「司会者もゲストもギャラをもらっている。お客さまは視聴者だ」という信念からだった。初対面の共演者のことはきっちり調べ上げ、どんな受け答えでもできるように準備。気遣いも一流だった。

 「クイズダービー」で共演した淑徳大教授の北野大氏は「仕事の厳しさ、妥協をしない強い信念があった」と振り返った。「同業者には厳しい辛辣(しんらつ)なことを言う一方、一般の視聴者には極めて優しい対応をしていた」と明かし、現代のバラエティー番組の一つの風潮である“素人いじり”は一切しないプロだった。

 趣味も本気でやり、ゴルフでは70代になって何度もエージシュートを達成する腕前。米大リーグにのめり込むと、テレビ中継で解説をするほどの知識を蓄えていた。

 決断はキッパリ。56歳だった90年に高齢化社会を見据えて「セミリタイア」を宣言。「体力のあるうちに余生を楽しみたい」とテレビ、ラジオの全レギュラー番組を降板。完全には引退せず、負担にならない程度に仕事を続けることを決めた。当時は理解されないこともあったが、勤勉な日本人に新しいライフスタイルを提案した。

 以降は、気候の良い時期に太陽を追うようにカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、日本を1年で巡る「ひまわり生活」。70年代から経営していた土産店の事業を本格化させ、実業家としても成功。一方でメディアを通じての発言を続けて社会と離れることはせず、大橋巨泉という存在感を保ち続けていた。

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